【光る君へ】ぞろぞろ登場する道長の子女たちは 露骨なほど明確に序列化されていた
頼通との口論も厭わなかった四男
明子が産んだ顕信が出家した事情は、すでに述べたとおりだが、明子が産んだ男子はほかにまだ2人いた。
3番目(道長の四男)の能信は勝ち気な性格で、倫子所生の男子にくらべて自分たちの出世が遅いことに露骨に反発し、異母兄の頼通に対して公然と反論することもあったと伝えられる。とはいえ、長和3年(1014)には従三位に叙せられて公卿になったのちの昇進具合は、やはり道長の子息である。長和4年(1015)に正三位、同5年(1016)に従二位に叙せられ、寛仁元年(1017)には権大納言に(大臣には昇進していない)。さらに寛仁2年(1018)に正二位に叙せられるなど、ほかの家系にくらべれば出世は早かった。
4番目(道長の六男)の長家は能信より10歳年下だが、治安2年(1022)には18歳で従三位に叙せられ、公卿となった。同3年(1023)には正三位権中納言、同4年には従二位、そして正二位となり、万寿5年(1028)に権大納言になった。ハイペースの出世ではあったが、康平3年(1060)に頼通の息子で19歳の師実が内大臣に任ぜられ、官職を超えられたときには憤慨したと伝わる。
要するに、明子所生の息子たちも、一般的にみればかなりの出世を遂げているのだが、母親の違いによる差はあからさまだった。それは女子についても同様だった。
あまりに違う女子のあつかい
前述したとおり、倫子が産んだ長女の彰子は一条天皇の中宮に、次女の妍子は三条天皇の中宮になったが、それだけではない。3番目(道長の四女)の威子は後一条天皇の中宮になった。4番目(道長の六女)の嬉子は中宮にはなっていないが、それは入内した東宮がご朱雀天皇として即位する前に、嬉子が死去したから。要するに、道長は倫子が産んだ女子全員を、天皇か東宮のもとに入内させたのである。
では、明子所生の女子はどうだったか。三女の寛子は三条天皇の第一皇子、敦明親王の女御になったものの、その時点で親王は即位への道が断たれていた。五女の尊子は源師房のもとに嫁いだ。師房は村上天皇の第七皇子であった具平親王の子で、臣籍降下しているとはいえ天皇の孫ではある。だが、倫子の娘が4人とも天皇や東宮に嫁いだのとは、あまりに違う。
「光る君へ」では子供たちの待遇をめぐって、明子がいつも道長を責める。当時の貴族社会では、母親の出自による序列化は当然で、子孫のあいだで無用な争いが起きるのを避けるためにも、序列化は必要だった。とはいえ、明子が、そしてその子供たちが不満をいだいたのも当然だろう。
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