【光る君へ】ぞろぞろ登場する道長の子女たちは 露骨なほど明確に序列化されていた

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後ろ盾になった家系を引き立てた

 その後、もうひとつ重要な場面があった。三条天皇が「そなたと明子のあいだの子、顕信を蔵人頭(註・天皇の秘書官長)にしてやろう」と投げかけたのに対し、道長は「顕信に蔵人頭は早いと存じます。まだお上をお支えするような力はございません」と返答したのである。

 父親が、待ち望んでいた昇進話をあえて断ったと知らされた顕信は、「父上、私は蔵人頭になりとうございました」と訴えた。しかし、道長は「焦るな。いまは帝に借りを作ってはならないのだ」と諭した。

 それを受けて顕信が発した「私は父上に道を阻まれたのですね」というセリフ、そして、明子の「帝との力争いにこの子を巻き込んだ貴方を、私は決して許しませぬ」というセリフは、いいところを突いていた。この直後、顕信は比叡山で出家してしまった。自身の外孫である敦成親王(濱田碧生)を一刻も早く即位させたい道長は、三条天皇と駆け引きをし、セリフのとおりに「借りを作らない」ことを優先するあまり、顕信を犠牲にしてしまった感がある。

 そんな状況も踏まえながら、道長の12人の子について、以下に「光る君へ」を観る際のガイドにもなるように整理してみたい。

 道長は倫子が産んだ子と明子が産んだ子のあいだで、明らかな差をつけた。倫子は左大臣源雅信の長女で、その雅信は宇多天皇の孫。天皇の血を引いているという点では、最初から臣下である藤原氏とは格が違った。また、道長が政界で上りつめるにあたっては、雅信のバックアップに助けられており、道長の邸である土御門殿も、もとはといえば雅信の屋敷だった。

 一方の明子も左大臣だった源高明の娘で、高明は醍醐天皇の息子だから、明子自身が天皇の孫である。しかし、高明は藤原氏の策略で太宰府に流され、もとの地位に戻ることなく死去していたので、道長にとって血筋のありがたみはあっても、その家系の後ろ盾を得られたわけではなかった。このために、明子所生の子たちは差をつけられたのである。

次男でも五男より出世できない

 第41回で、顕信が道長に「われわれが公卿になる日は、いつなのでございましょうか」と食い下がったのは、息子たち自身、差をつけられていると感じていたからである。ところが、道長は三条天皇に取り込まれないように、これを断ってしまった。自分が考えている息子たちの秩序を乱されたくないという思いもあっただろう。いずれにせよ、顕信が長和元年(1012)正月16日に突然、出家したのは、相当ショックを受けたからだと思われる。

 そういう事情なので、倫子が産んだ頼通は順当に出世した。長和5年(1016)に敦成親王が即位して(後一条天皇)、道長が摂政になると、その翌年には内大臣になり、同時に父から摂政を譲られた。寛仁3年(1019)には関白、治安元年(1021)には左大臣になっている。優柔不断で、公卿たちの前で引退した父から罵倒されることもあったというが、それでも道長は、倫子が産んだ長男である頼通を退けようとはしなかった。

 倫子が産んだ次の男子は教通である。道長の五男で末っ子に近かったが、頼通の次に重用された。治安元年(1021)には内大臣に昇進。それから40年以上をへたのち、康平7年(1064)に頼通から藤氏長者を譲られ、治暦4年(1068)には頼通に代わって関白に任ぜられた。

 それにくらべると、明子腹の頼宗は明らかに出世が遅い。寛仁2年(1018)に正二位、治安元年(1021)には権大納言に任ぜられたが、その後は進まなかった。頼通が左大臣、教通が内大臣で、さらに長老で『小右記』の筆者の実資が右大臣だったので、大臣ポストに空きがなく、大臣になれなかったのである。寛徳3年(1046)に実資が死去すると、翌年にやっと内大臣になることができた。ただ、天喜6年(1058)には従一位に叙せられ、2年後には右大臣にまで昇進している。

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