「同じ話を何度も何度も反復」 横尾忠則が考える“長寿の秘訣”
歳を取ると同じことをよく言うといいます。ある知人は、僕に何度も言ったことを、僕に話すのは初めてだと思うのでしょうか。会うたびに「また言っている」のです。でも僕はいつも初めて聞くようなふりをして、へんに感心して聞いてあげています。この人が何を言うかということを僕が書いてしまうと、ある著名人のことだと分かってしまうので、話の内容までは書けません。もしこのエッセイをその人が読んだらきっと傷つくからです。その人は僕よりも年長者です。何年もの間に何度も同じことを聞いています。他のことも、「前に聞いた、聞いた」と思うのですが、フンフンと初めて聞いたふりをします。
これは一体親切なのか、不親切なのかどっちでしょうね。僕だって同じ話を何度もすることがあります。そんな時は「前にも話したと思うけれど」と断ってから話します。「あゝ、その話はもう何度も聞きましたよ」、と中には時々、そう言う人もいます。
そんなことはわかっているんだけれど、何度でも聞かせたい話もあります。これも名前を言うと失礼になるので名は明かせません。まあこの人はすでに亡くなりましたが、この人の本には何度も何度も同じことがでてきます。よほどこのことが嬉しかったのか、何度でも人に聞かせたいのか、この場合は無意識で語っているのではなく、かなり意識的に宣伝のつもりで言っていたのだと思います。どの本にも同じようなことがでてくるので、その内すっかり記憶してしまったほどです。
僕だって、この連載で何度か同じことを書いています。これは無意識というより、以前にも書いた記憶があるのを承知の上で、書かざるを得ない、というか、考え方が固定化しているので、ついまた同じようなことを書いてしまうのです。
僕は美術作品の中で同じ主題を度々取り上げたり、同じモチーフを何度も描くことがあります。つまり反復するのです。これでもか、これでもかと同じモチーフを反復させます。この場合の反復は以前に描いたことを忘れていて、再び描いてしまったというのではなく、意図的に反復するのです。美術のある分脈ではこの反復はひとつの様式というかコンセプトになっていて、大抵の画家は反復を繰り返します。
美術の世界では反復は最早や常識になっています。同じ主題や様式を何年も繰り返し、これでもか、これでもかと、よく飽きもせずに反復します。ジョルジュ・デ・キリコというイタリアの画家は自作をそっくりに何十点も模写します。まるで印刷の複製画のように明けても暮れても同じ絵をほぼ同じサイズで、30点以上描いたんじゃないかと思われます。これは一体何を意味しているのでしょうか。
もしかしたら意味などないのかも知れません。描きたいから描いているだけで、別に義務で描いているとも思いません。では何かの目的があるのでしょうか。恐らく目的などはないと思います。目的など持つと疲れてすぐ止めたくなります。目的がないから描けるのではないでしょうか。この絵が欲しいというコレクターが沢山いるために描く場合は、それが目的で、商売のためということになりますが、どうもキリコは、ただ同じ絵でも、全く同じには描けないので、それがむしろ快感になっていたのかも知れません。同じ絵なのにどうして全く同じに描けないのだろうかという不思議に取りつかれた結果、何十枚にもなってしまったのです。この全作品を一堂に並べて展示した展覧会があればぜひ見てみたいと思います。
意図的に習慣を作ってしまって、昨日も今日も明日も同じことを繰り返すというのはわれわれの日常の中にもあります。考えてみれば実に馬鹿馬鹿しいことをしています。毎日同じ時間に起きて、同じような朝食を食べて、駅まで歩いて、同じ時間にやってくる電車に乗って、昨日と同じ会社に行きます。そのことに何ら疑問もありません。今日は気分が乗らないので他所の会社に行ってみようなんてことはできません。習慣が慣例化しているので、特別疑問も持たないのです。
これに似たことを画家は自作の上で繰り返しているのです。だから、昨日と同じことを今日もしゃべったからと言って、「変な人」とも思わない。老齢になると変化が失くなってくるのです。それでいいのです。老齢になって毎日違うことをやっていたら疲れて病気になって死期を早めてしまいます。同じことを繰り返してしゃべることは長寿の秘訣です。意図的に同じことを相手が好こうが嫌おうが無関係にしゃべりまくりましょう。
同じ話を何度も何度も反復するのは本当に長寿の秘訣だと思います。僕はそれを絵でやっているのです。それが芸術なんです。老齢になって同じ言葉を繰り返すのは、歳を取ると人間は次第に芸術家になっていくからだと思います。だから芸術家は皆、長生きするでしょ?