ひろゆきのマネをして「それってあなたの感想ですよね」と口にする子どもはどういう目に遭うのか
ひろゆき氏は現代のトリックスターの一人といえる存在だ。その影響力は特に若年層や子どもには絶大なものがあるようで、彼の物言いやロジックをそのままマネする者も珍しくないという。
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「部屋が汚いから片付けなさい」
「汚いというのはママの感想に過ぎないよね」
言い返されて、ムッとしても体罰は厳禁の時代、頭をたたくこともできず……そんな悩みを抱える親もいる。
子どもが減らず口を言うのは今に始まったことじゃないだろうと受け流せる人もいるだろうが、教育の現場では「ひろゆき的」な思考や物言いが幅を利かせていることで頭を抱えている当事者がいるようだ。
福島市で塾を経営する傍ら、社会批評を中心に執筆活動に取り組んでいる物江潤(ものえじゅん)さんもその一人。物江さんは、「挑発的な物言い」「過剰なエビデンス主義」「旧来の規範の軽視」といった「ひろゆき氏的な思想」がなぜ若者を魅了するのか、「論破」を是とする思想は正しいのか、という問いに新著『「それってあなたの感想ですよね」 論破の功罪』で正面から向き合っている。
いま教育の現場にどのような形で「ひろゆき氏的な思考」がまん延しているのか、そこに物江氏が違和感を覚える理由は何かについて述べた部分を見てみよう。(以下、同書をもとに再構成しました)
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論破とは「相手をいらつかせること」
「それってあなたの感想ですよね」
「なんかデータってあるんですか?」
ついに、この言葉を投げかけられてしまいました。ひろゆき氏に始まる、心をザワザワさせる挑発的な物言いは若者に大うけし、全国の小中学生が親御さんや先生にぶつけていることは知っていましたが、まさか当塾で耳にするとは思いもしませんでした。しかも、この言葉を発した生徒に対し「論破」の意味について尋ねてみたところ「相手をいらつかせること」と答えが返ってきたうえに、データに至っては「意味は分からない」とくれば、どうにもこうにも脱力せずにはいられません。親御さんや学校の先生方の苦労がしのばれます。
私は叱りました。ガミガミとうるさいことを言うのは嫌いですが、このときばかりはきちんと叱りました。なぜならば、この言葉は本当に危ういからです。こんな考え方を身にまとい日々を過ごすようになれば、それは破滅への道に通じていると言っても過言ではありません。
ひろゆき氏は時代の寵児です。八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍は周知のとおりで、YouTube、書籍、テレビ番組における活躍のみならず、『異世界ひろゆき』(集英社)という、主人公である彼が敵を論破しまくる漫画まで登場し人気を博しています。
知の巨人と称される作家の佐藤優氏が、ひろゆき氏を「もっとも影響力を持つ論壇人の一人」としたうえで、彼の思想を過小評価すべきではないと指摘しているように、その影響力は絶大です。実際、「進研ゼミ小学講座」が実施した調査によると、「それってあなたの感想ですよね?」は2022年の流行語ランキングで1位、2023年には4位となっています。調査結果だけを見ると、この言葉が全面的に小学生から歓迎されているようにも思えます。
しかし、少し違った実情も見えてきます。この言葉、たしかに流行している様子が生徒からも伝わってきますが、それと同時に忌み嫌われている様子もまた伝わってくるからです。
先生は指導しない
このことは、学校での掃除の時間を考えてみれば容易に理解できます。
みんなが苦労して雑巾がけをしているなか、足で雑巾を踏みつけて掃除をする男子がいるとします。勤勉な女子は彼に「足で雑巾を踏んじゃいけないでしょ」と注意をしますが、それに対し先のような言葉で応戦してしまっては、クラスメイトから嫌われるのは当然です。注意に対しては屁理屈のような反論で応じる一方、よりよい掃除のための代替案は一切提示しないとくれば、嫌われない方がおかしい。批判という名の論破をすることが痛快でたまらない男子は、論破を試みるごとに周囲から疎まれてしまうわけです。
先生と生徒の間にも、同じようなことが言えます。とある荒れ果てた中学校のクラスでは、先生の指導に対し「それってあなたの感想ですよね」という言葉で応じる男子たちがいても、先生は指導をしないのだそうです。「怒られているうちが花」なんて言いますが、学級崩壊が生じている場合、もはや先生は怒りさえしないという話は「あるある」です。
立場が上であるはずの先生を、あたかも論破したかのように黙らせ、好き放題に振る舞うことができるとくれば、こんなに愉快なことはありません。先生からの指導や学校のルールという名の手かせ足かせから解放された生徒たちは自由を謳歌し、一時は楽しい学校生活を送ることでしょう。
しかし、その代償はあまりにも大きい。クラスメイトたちから白い目で見られるうえに、学力低下や成績の悪化を招き進路の幅が狭まるという散々な未来が待ち構えています。
この生徒は、目先の楽しさや快適さを優先した結果として、多くのものを失うことになります。
まず、クラスという名の共同体(居場所)を喪失したため、学校の外やネット上で居場所を確保する必要が生じます。学校内におけるルール(規範)を否定すれば、その学校内の共同体から排除されるのは必然です。
先生に代わる権威を求めるのであれば、適切な権威を探すという難しい仕事が待ち構えてもいます。ネット上を探せば、そんな権威になりそうなカリスマ的存在はあちこちにいますが、果たしてそれに従うことが本人にとってよいことなのかどうか、相当に微妙です。いわゆる迷惑系YouTuberにさえ、小中学生と思しき熱心なファン(信奉者)を確認できるあたり、安易に先生の代わりと見なすのは危険でさえあります。居場所も権威も否定し一人で生きてもよいのですが、その道のりが険しいことは自明でしょう。
見逃されているひろゆき氏のメッセージ
ひろゆき氏の言葉には「論理やデータが非常に大事だ」という含意(がんい)もあります。が、そもそも学習が十分ではないこの生徒は、論理やデータを使いこなすことができるとは思えません。むしろ、それらを滅茶苦茶に使ってしまい、あらぬ方向に突き進んでしまうような気がします。規範や権威には従わないが、そうかといって論理やデータに基づいた適切な判断もできないとなれば、いったいこの生徒は、これから何に基づいて生きていくのでしょうか。
石丸候補の論破術
こうした論破の弊害は、今夏の東京都知事選で注目を集めた石丸伸二氏をめぐる騒動からも見て取れます。とりわけ、テレビ番組でキャスターや論客たちと議論をするものの上手く話がかみ合わず、石丸氏が再質問を繰り返したり言葉の定義について何度も確認をしたりしたシーンは、この問題を考えるうえで示唆的です。
幾度となく定義や話の前提を確認する石丸氏の話法は、ある種の論理学を想起させるものです。
たしかにそうした定義を求める厳密さにも意味はあるけれども、日常生活で活用するのには難しすぎます。実際、日常生活においては論理学ではなく、それぞれの社会や業界内で通用する論理・暗黙の了解・習慣などを踏まえたラフ(≒いい加減)な議論が展開され、たびたび業界内の人間にしか理解できない代物になりがちなことはご承知のとおりです。
そんな業界のお約束を無視し、万人に開かれた緻密な話をしようとする姿勢そのものは、議論において非常に大切なことだと思います。
しかし、石丸氏が意識しているかどうかは分かりませんが、この両者の溝を悪用し過剰な厳密さを相手に要求すれば、あらゆる質問を撃退できる禁じ手になることもまた事実。
やり方は簡単です。相手の主張や質問を、論理学と同じようなレベルでチェックするだけです。そうすれば確実に粗(あら)が出てくるので、より厳密に話すよう再質問をすればよい。仮に相手がいかに厳密な返答を試みても、それを口頭で論理学と同じ水準にまで上げるのは不可能なので、延々とより緻密な主張を要求し続けることができます。相手が返答に窮したその刹那、強い口調で批判をすればなお効果的でしょう。なんなら、幾度となく再質問をすることで時間切れを狙うことも可能です。
荒っぽく言えば「その言葉の意味するところが不明瞭なので、もっと厳密に定義してください」といった類のセリフを繰り返せばよいわけです。
この場合、議論を全体的に見れば無理難題を吹っ掛ける側(石丸氏)に問題があるのですが、同時により厳密なレベルを要求している側でもあるため、非があるように思われにくい。切り抜き動画であれば全体像を確認できないので、そもそも問題になりえません。厳しい質問や主張により相手を攻めるシーンが切り抜かれた動画は痛快であり、この時代に適合した新しい手法だとは思います。
「新しい」という言葉が象徴するように、この手法は新しい世代に深く刺さったようです。彼らから多くの票を集め、選挙前の予想を大きく上回る2位に躍進した一因に切り抜き動画があったことは想像に難くありません。日常的に切り抜き動画に触れている世代とそうではない世代とでは、見えている世界が相当違っていることを示唆する出来事でもありました。
敵味方を明瞭に分ける
しかしながら、その弊害は如実にあります。強烈に相手を論破するというスタイルをとるため、味方/敵が明瞭に分けられてしまうのです。結果、熱狂的な一部の石丸氏の支持者たちが、敵と見なされた側に執拗な誹謗中傷を投げてしまうのは問題でしょう。そして、敵と見なされた側もまた石丸氏に大量の誹謗中傷を投げかけることで、さらに状況が混沌としてしまうわけですが、こうしたネット言論の世界に呆れ果て、多くの良識ある人々が撤退するのは目に見えています。
論理やデータは大切です。議論をすれば論破をすることもあるでしょう。ただ、これらに至上の価値を認めてしまう現代の風潮は、どうにも腑に落ちません。本当に、そんなに論理は大切なのでしょうか。
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物江氏は決して論理の軽視や無視を推奨しているわけではない。一方で論理に重きを置きすぎる姿勢は、当人やあるいは社会に幸福をもたらさないのではないか、と指摘する。リクツが先走り、口が達者な子どもは往々にして「論破」的なものを好む。社会に出ると、「論破」したはずの相手が、面従腹背となることは珍しくない。人は決してリクツだけでは動かないものなのだが、そういう世間知を得る機会がないまま成長すると痛い目に遭うかもしれない。