【光る君へ】孫を早く天皇にしたい「道長」のえげつなさ 三条天皇を追い詰めたやり口

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道長と三条天皇の「冷戦」

 三条天皇は道長の甥だった。道長の父の兼家(段田安則)は、冷泉天皇に次女の超子、円融天皇には長女の詮子(吉田羊)を入内させ、彼女たちはともに皇子を産んだ。詮子が産んだのが懐仁親王、つまり一条天皇で、超子が産んだのが居貞親王、つまり三条天皇である。したがって、道長にとっては両天皇とも自分との血縁はあったのだが、近親婚が常態化していた当時、この程度の血縁は、血縁とは見なされなかった。

 道長は三条天皇を軽視していたとはいえ、打つべき手は打っていた。次女の妍子(倉沢杏菜)を、東宮時代の居貞親王に入内させていたのである。そのうえ、一条天皇に彰子を入内させ、定子へのいじめを加速させたのと同じようなことを、三条天皇のもとでも行った。

 三条天皇は藤原済時の娘の娍子(朝倉あき)を寵愛していた。済時は藤原氏の本流ではなく、政治的には重要とはいえない妻だったが、三条天皇はお構いなしで、第一皇子の敦明親王をはじめ6人の子を産ませている。そこに妍子というくさびを打ってきたのが道長だった。そして、長和元年(1012)2月14日、妍子は中宮となった。

 これに対し、三条天皇は妍子の立后を受け入れながら、奇策に打って出た。同時に愛する娍子も立后させるように求め、2カ月後に実現させたのである。この「一帝二后冊立」は、かつて一条天皇の中宮として定子がいたところに、道長が彰子を割り込ませたのが初めての例だった。三条天皇はそれを逆手にとって、道長に対抗したわけだ。

 しかし、道長は負けてはいない。娍子が立后する同じ日に、妍子を内裏に入らせることにして、公卿たちには妍子の行事に列席するように暗に迫り、娍子の儀式に閑古鳥を鳴かせている。

三条天皇を露骨に追い詰めた

 三条天皇は道長を取り込むために、手を尽くしもした。たとえば、次妻である明子(瀧内公美)が産んだ道長の三男の顕信を、天皇の秘書官長である蔵人頭に抜擢しようとした。ところが、道長は三条天皇の術中にはまりたくなかったのだろう。断っている。これには後日談があり、顕信は出世の機会を奪われて傷ついたと思われ、出家してしまったのである。さすがの道長もショックを受けたようだ。

 道長の「冷血」が示されたエピソードもある。懐妊した妍子が産んだのが皇女だったので、藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』によれば、それを不満とする態度をかなり露骨に示したという。ちなみに、このとき産まれた禎子内親王はのちに、彰子が産んだ敦良親王、即位後の後朱雀天皇に嫁いで、尊仁親王(のちの後三条天皇)を出産している。この後三条天皇は、冷泉系と円融系がひとつに合わさって、両統迭立を解消する天皇である。

 さて、こんなことが続くうちに、長和3年(1014)2月には内裏が焼失。三条天皇は極度のストレスを抱え、『小右記』によれば、片目は見えず、片耳は聞こえないような状況になった。気の毒だが、道長はそんな状態の天皇に譲位を迫るのである。その後、道長は2年近くにわたって、三条天皇にたびたび譲位を迫っている。

 それでも三条天皇は、娍子とのあいだに産まれた次女である禔子内親王を、道長の嫡男、頼通(渡邊圭祐)のもとに降嫁させたいと持ちかける。しかし、結局はうまくいかずに破談になっている。

 その間、三条天皇の眼病は一向に回復せず、そうこうするうちに、長和4年(1015)11月には新造なった内裏が、完成してわずか2年で焼失。道長の嫡男、頼通(渡邊圭祐)が発病して、一時は危篤状態になった。あまりに凶事が続き、三条天皇の心がさらに折れかかっているなか、道長は内裏の火災の翌日にも天皇に譲位を迫り、三条天皇は根負けして退位を決意する。

 むろん、次に即位するのは敦成親王である。その結果を得るために道長が行ったのは、このように「闇落ち」させずには到底描けないような内容だったのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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