南極氷山で流しそうめん、昭和基地では本格フレンチ…「南極料理人」が語る“極地の1年間”
「雪上車を降りるとあたり一面360度何もない雪原でした。絶景に感動したのはもちろんなんですが、それと同時に思ったのは、底知れない恐怖でした。ここで1人取り残されたら確実に命を落とすんだろうなと」
南極大陸の内陸部を遠征していた体験を語るのは今年3月31日まで第64次南極観測隊員の調理人として活躍していた中川潤さん(41)だ。
南極観測隊は1957年以降、続けられている国の事業。南極で地球環境変動を探ることを目的とし、観測と基地の維持管理を続けている。様々な専門分野や技術を持つ隊員たちから構成される隊が1年毎に派遣され、任務を遂行する。
観測隊は夏隊と越冬隊に分かれる。越冬隊員だった中川さんは、丸1年間、昭和基地に滞在する28人(彼を含む)からなる隊員の胃袋をもう一人のベテラン調理人とともに支え続けた。そんな中川さんに南極観測隊の1年を聞いた。
【西牟田靖/ノンフィクション作家】【前後編の前編】
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旅する料理人
中川さんは1983年4月19日生まれの41歳。兵庫県三田市の出身で、現在は鹿児島県志布志市に妻と子3人とともに暮らす。和食料理人として4年間勤務の後、青年海外協力隊員としてバングラデシュの調理師学校で勤務。ブラジル・マナウスの日本総領事館の公邸料理人などを経て、2018年、鹿屋市内に「小料理屋 菜」をオープンした。
中川さんは以前から南極への憧れがあった。
「そこにしかないものがたくさんある。しかも気軽に行くことなど出来ない。いつかは行ってみたいと思い続けていました。年齢を重ねるに連れ、“やっぱり行っておけば良かった”と後悔したくない思いが強くなったんです。妻も協力隊員の経験者だったので私の考えに理解がありました」
南極観測隊で料理人となるためには、国立極地研究所(極地研)の試験に合格する必要がある。2017年に中川さんは初めての受験に挑んだが惜しくも不合格。4年後の2021年、中川さんは再度の受験に挑戦する。
「試験の内容は書類審査と50分の面接でした。面接官の数は10~12人、これから南極に行く観測隊の隊長など。志望動機やこれまでの仕事を聞かれたほかに、『セクハラについて』、『料理の好き嫌いに対応するのか』などと聞かれました。料理の腕より協調性や危険対処能力などを見ていたのでしょう」
2022年に入ると、健康診断を経て、7月に本採用が決まった。出港する11月までの間、取り組んだのは昭和基地に滞在する隊員28人の1年分の食料を用意するというミッションだった。1年でひとりが食べる食料と飲料の量は合わせて約1トン。単純計算して28トンだ。しかも長い期間の生活のため、メニューを豊富にするために、さまざまな食材を買い込む必要があった。
「週1回はラーメンにしようとすると替え玉を含めて35玉。52週で1,820玉は必要とか、鶏肉や豚肉はひとり一食200グラムだから1年分で何トン必要とか。そんな風に逆算して注文して、コンテナに載せていきました。そのほかカット野菜や菓子やアルコール、カップ麺、毎月行われるイベントデーや、フルコース用の高級食材なども積んでいきました」
用意した食料は40トン、冷蔵・冷凍品だけで12ftコンテナ(3・6メートル×2・2メートル×2・2メートル)8機、常温の食料、調味料、飲料でスチールコンテナ70機にもなったという。
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