「袴田さんが10歳若ければ控訴したはず」…死刑執行を防ぐ契機を作った世田谷区長が指摘する「検察のメンツ」

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もう1人の命の恩人

 巖さんの死刑執行を防いだ人物といえば、2014年に巖さんを釈放した静岡地裁の村山浩昭裁判長(現・弁護士=67)だが、命の恩人はもう1人いる。死刑執行を防ぐ契機を作った保坂展人・世田谷区長(68)だ。国政に携わっていた頃から法務省の矯正局に繰り返し巖さんの様子を聞くなど必死に支援した。

「検察組織は無限に継続できるが、袴田さんは違う。検察はもともと(立件は)無理筋だった事件を再審に持ってきた。再審請求しても死刑を執行する現在、生きて袴田さんがこの瞬間を迎えたことは非常に大きい」

 21年前、当時の巖さんは「俺には姉なんかいない」と3年近くひで子さんとの面会を拒絶していた。そこで保阪区長は、東京拘置所を担当する矯正局と示し合わせて「今日は畳の交換の日だから」と巖さんを別室に連れ出し、ひで子さんと面会させた。その時の支離滅裂な会話を知った森山真弓法務大臣(当時=1927~2021)が委員会で「(巖さんは)精神に異常をきたしている」と発言したのだ。

「刑事訴訟法の条文からも、これで死刑執行はないと確信しました」(保坂区長)

 この面会が実現した当時、ひで子さんは70歳だった。

「当時よりさらに逞しくなった印象。肝が座った戦いを続けてこられた信念の強さが無罪を確定させた。その中心軸だったのがひで子さんですね」(保坂区長)

 また、再審が始まるかもしれないという朗報を伝えようにも、当時の巖さんは弁護士とも会わなかった。そんなエピソードを振り返る保坂区長は、感慨深げに言う。

「袴田巖さんには『二重の縛り』があった。物理的に拘置所の牢獄で、長期間、収容されているだけでなく、心の中も別人にならざるを得ないという縛り。今回、報告集会で本人が出てこられたのをニュースで見て『よかったなあ』と思いました。これまで期待しては覆りを繰り返してきたので、縛られていた心のロープは簡単には切れなかった。今、完全に切れたわけではないけど、袴田さんが全能の神から(人間に)戻ったという瞬間を感じました」

「10歳若けりゃ控訴した」

 検事総長談話については「まさに検察のメンツ」と断じる。

「まさに検察のメンツ。裁判所が捏造としたことが気に入らない。検察は5点の衣類だけで有罪になっているわけではないとして他の要因も入り込ませた。『疑わしくは被告人を罰せず』の推定無罪の原則を全く逆にして『無罪を立証できなきゃ有罪』のロジックにしてしまった。袴田さんが10歳若ければ控訴したはずで、そこに根本的な反省はない。ただ、控訴すると検察批判が渦巻くことを恐れたのでは」(保坂区長)

 控訴断念については「政治的配慮」もあるとみている。

「その配慮も自己防衛のため。『控訴したかったけどしないよ』という姿勢。静岡県警と検察はすり合わせたかのように巖さんを長く法的に不安定な地位に置いたことを反省してみせた。不安定どころか、いつ死刑執行されるかの状況に対する反省や検証はまったくない」(保坂区長)

 保阪区長は当時、衆議院議員の国政調査権により袴田さんと会った。「当時は袴田さんの異常も『仮病ではないの』なんて言われていた。国会で選出される人は人権の問題にしっかり取り組んでほしい」と政治家らしく締めくくった。

 NHKは10月12日朝、検察が事件の遺族に控訴断念を謝罪したというニュースを報じた。遺族が巖さんを犯人だと思い、検察が「袴田巖が犯人」と思わせているようにも取れる。だが、再審の終盤、検察が代読した遺族の思いに、巖さんが犯人といった記述はなかった。訴えていたのは、事件で唯一生き残った長女が事件と関係していかのように報じられ、苦しんでいたことだけだった。検察の「印象操作」をNHKがそのまま報じただけだった。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に『袴田巖と世界一の姉』(花伝社)、『サハリンに残されて』(三一書房)、『警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件』(ワック)、『検察に、殺される』(ベスト新書)、『ルポ 原発難民』(潮出版社)、『アスベスト禍』(集英社新書)など。

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