格子の向こうから女たちが声をかけ、客は格子越しに一夜妻を選ぶ──時代劇でお馴染みの「吉原」はどんな町だったか?

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 2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で、横浜流星さんが演じる主人公・蔦屋重三郎は、吉原で寛延3(1750)年に生まれた。8歳のときに両親が離縁、その際、吉原にある親戚の家に預けられた。彼がひらいた最初の本屋は浮世絵と草双紙を主に扱っていたが、それを背負って、吉原で貸本屋を営んでいたようだ。

振袖火事で燃えた元吉原

 吉原は江戸唯一の幕府が公認した遊郭、町奉行が差配していた。

 吉原には新と元がある。重三郎が活躍した時代、そして私たちがイメージするのは「新吉原」に他ならない。

「元吉原」は日本橋葺屋町(ふきやちょう)、今の人形町あたりにあった。

 3代将軍家光の代になって江戸市街地の都市化は格段に進み、この頃から「お江戸の中心地に遊郭があると風紀が乱れる」という声があがりはじめる。4代家綱治世の明暦2(1656)年、江戸町奉行の命令で移転が正式に決まった。

 だが、その矢先の明暦3年1月18~19日、元吉原は「明暦の大火(振袖火事)」により焼失してしまう。この火難の被害者は10万人といわれ、江戸の町の大半が失われた。江戸城も例外ではなく、本丸や二の丸ばかりか5層6重の天守閣が焼け落ちた。天守閣はその後も再建されることがなかった。

移転先はのどかな田園地帯

 こうした経緯から、吉原は浅草寺の裏手にあたる千束村(台東区千束3丁目から4丁目)へ移転となった。

 往時の千束村はのどかな田園地帯。江戸の北端に位置したか北国(ほっこく・きたぐに)とか北里(ほくり)、北洲(ほくしゅう)、北廓(ほっかく)とも呼ばれていた。

 粋を気取る遊び人、あるいは吉原関係者たちは「さと」(里あるいは郷)とか「丁(ちょう)」「中(なか)」と称している。

 さて、江戸の北端に位置する吉原へ赴くには、浅草聖天町(しょうでんちょう)と三ノ輪(みのわ)を結ぶ日本堤をいくしか方法がない。

 日本堤は隅田川の氾濫を防ぐために築かれた。およそ13町(約1.4キロメートル)の一本道の両側には、吉原の人出をあてこんだ食べ物屋がひしめく。いずれも葦簀(よしず)掛けの簡素な店ながら、その繁盛ぶりはなまなかのものではない。

吉原を囲う「鉄漿(おはぐろ)どぶ」

 日本堤の中ほどには枝ぶりも見事な「見返り柳」、そいつを目印に西へ曲がり衣紋坂を下れば吉原は眼と鼻の先。

 一夜の悦楽を満喫し帰途に就いた客は、見返り柳で女を偲び振り返る……。

 新吉原は縦が京間尺の135間、横180間の長方形で敷地面積2万8500坪だった。

 約265.95×354.6メートル、約9万4305.87平方メートルというサイズは、東京ドームの2倍にあたる。

 吉原はぐるりと塀と幅5間(約9メートル)の溝で囲ってあった。この溝は「鉄漿(おはぐろ)どぶ」と呼ばれ、吉原の女たちが吐き捨てた鉄漿のせいで黒く濁っているといわれていた。

女たちの脱走を防ぐ「女切手」

 吉原の出入口は北東に構えた大門しかない。

 門を入った左には隠密廻りの与力や同心が詰める面番所。ここに役人がいるのは、犯罪者が逃げ込むのを防ぐのと、吉原で発生する事件、事故に対応するためだ。遊郭では無銭飲食から傷害、殺人などなどモメ事が少なくない。

 右側には会所、いわゆる四郎兵衛会所がある。こちらでも、吉原ゆかりの面々が人の出入りを見張っている。会所は特に女の出入りに厳しく、町女とわかっていても、いちいち会所が発行する「女切手」という通行証が必要だった。

 会所で、ひとりひとりに女切手を渡すという手間をかけたのは、女たちの脱走を防ぐ方便に他ならない。男装して会所を潜り抜けようとしても、遊郭勤めの手練れたちが虎視眈々と眼を光らせている以上、容易に脱走はできない。

 もっとも、大門がダメなら塀を乗りこえ溝を渡るという方法もなくはない。事実、鉄漿どぶには9カ所に跳ね橋がかかっていた。だが、こいつはあくまで非常用、わざわざ橋を降ろして逃亡するのは至難の業だった。

 八百屋や魚屋、髪結い、荒物屋、湯屋、仕出屋など生活に密着した店々があり、医者に大工、左官などさまざまな職人たちも働いていた。芸人、芸者だってこの町の住人だった。ちなみに、前述した「女切手」は吉原に生きる堅気の女たちにも例外なく適用された。

 重三郎の本屋は大門の外、衣紋坂にあったものの、彼もまた吉原に暮らす庶民のひとりとみなしてよかろう。そして、吉原の住人は例外なく遊郭と濃いかかわりをもっていた。もちろん、重三郎も例外ではない。

「吉原の女たちの練り歩き」は仲の町で

 吉原の街区は整然としていた。

 メインストリートは北東の大門から一直線に南西端の水道尻(すいどじり)までを貫く「仲の町(ちょう)」、この大通りを中心として五丁町と称される東西の区画に分かれる。

 仲の町には引手茶屋が並ぶ。ここは吉原の女たちの練り歩きをはじめ吉原ならではの数々のアトラクションが行われるイベントスペースでもあった。春先になれば何百本という桜の木が移植され、夜には雪洞(ぼんぼり)を灯すイベントが大人気だった。他にも吉原ではしょっちゅう催事があり、あの手この手で客を呼び込んでいる。

 仲の町の西には大門に近いほうから順に江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目。揚屋町は商人街でもあった。東は伏見町、江戸町二丁目、角町(すみちょう)、京町二丁目(新町)という構成になっている。もうひとつ堺町があったが明和5(1768)年、重三郎が19歳のおりに火事となり閉鎖されてしまった。

ランク別で異なる店構え

 それぞれの街区には木戸門が設けられ、両サイドに妓楼が軒を連ねた。

 妓楼は最高級店の大見世から中見世、小見世の順に格と遊興費が下がっていく。

 また、大見世以下は店舗のエクステリアによっても区別されていた。

 格子の向こうから女たちが声をかけ、客は格子越しに一夜妻を選ぶ──これは時代劇でお馴染みのシーンになっている。

 吉原と女たちのイメージと密接に重なる格子を籬(まがき)と呼ぶ。

 大見世は店の入口が天井までの高さの格子で総籬(そうまがき)、あるいは大籬と呼ばれている。中見世になると格子の上部が4分の1ほど開けてあり半籬、小見世は格子が下半分だけで上部は丸見えの惣半籬(そうはんまがき)だった。

大見世から局見世まで

 重三郎の青春期、どれだけの数の妓楼があったのかは判然としない。

 だが、少し時代の下がった文化8(1811)年のことは式亭三馬が『式亭雑記』に記している。それによると──大見世は8軒、中見世が19軒、そして58軒の小見世となっている。

 さらに小見世より安価で安直な妓楼もあった。東端の東河岸と羅生門河岸、西端の西河岸がそれで、狭い路地の長屋に2畳ほどしかない店がひしめいていた。これを局見世(つぼねみせ)あるいは切見世(きりみせ)という。局見世では、年季が明けたものの行先のない者や病気持ちの女たちが性をひさいでいた。

※本記事は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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