「ミミ萩原」「JBエンジェルス」「北斗晶」…大人気「極悪女王」に登場しなかったレジェンド女子レスラーたちの今

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レジェンドレスラーたち

「極悪女王」はダンプと同期の“55年組”との人間関係が中心に描かれている。ストーリー上であまり“55年組”との絡みがなかったためか、同時代に活躍したものの、作品に登場しなかった複数のレスラーがいる。

 クラッシュ・ギャルズが登場するまでジャガー、デビルとともに団体を支えたのがミミ萩原(68)だった。彼女は72年に役者、73年に歌手としてデビューしたが、芸能界の体質に嫌気が差し、ビューティ人気が全盛期だった78年に全女入りし、同年2月にデビュー。芸能界からプロレス界への転身は異例だったが、その美貌もあって注目を浴びる。しかし前座で連戦連敗を重ね、87連敗という記録を打ち立てるなど、入団から3年目の80年まではまったく芽が出ず。しかし、それでは終わらなかった。

「わざわざ専属コーチを付けて体重を増やすと81年2月に初タイトルを獲得しました。世代交代でジャガー、デビルとの“トロイカ体制”でエースに成長。露出度の多い水着で試合を敢行する路線を確立したことから脚光を浴び、82年には女子プロレスラーとして初の写真集を発売し、歌手活動も再開しました。しかし、クラッシュにバトンを渡すように84年4月に引退後は芸能界に復帰し、タレント活動を行い、『極悪女王』には登場していない松永家の長男と88年に結婚しましたが2年半で離婚。93年から広島に移住し、会社員と再婚し、子どもにも恵まれましたが離婚。05年1月、盟友・ジャガーの呼びかけで、約20年ぶりに一夜限りのリング復帰を果たしましたが相変わらずの美貌でした」(ベテランプロレス記者)

 ダンプや長与らの翌年、81年に入門した立野記代(58)と山崎五紀(58)により結成されたのが「JBエンジェルス(ジャンピング・ボム・エンジェルス)」。もともとは「フレッシュ・コンビ」だったが、タッグ王座獲得後に改名した。2人ともアイドル並のルックスで、正統派のプロレスが主流だった全女では珍しく空中殺法を武器にクラッシュのライバルとして女子プロレスブームを盛り上げ、JB名義でレコードデビューも果たしたが、87年に大きなチャンスが訪れた。

「全女の試合は全米でも放映されていましたが、JBの2人のビジュアルとファイトスタイルが、世界最大のプロレス団体WWE(当時WWF)幹部の目にとまり、JBにオファーが。ところが中継していたうちの局としては、全女のエースだったクラッシュを最初に全米進出させてその模様を放送したかったのです。クラッシュは2度、WWEのリングに上がるも米国のファンにはあ まり受けず。改めてJBにオファーがあり、87年6月から参戦しました」(前出・フジテレビ関係者)

 抗争相手となったタッグチームは、全女に来日経験もあったことから試合でもウマが合い、米国での人気が爆発する。88年1月のビッグイベントでは、世界タッグ王座を獲得する快挙で、さらなる活躍が期待された。

「ところが、その頃の全女はダンプ、大森らが相次いで引退。その“穴埋め”としてJBの2人が呼び戻され挙げ句、あろうことか、松永兄弟がWWEの首脳陣と揉めケンカ別れしてしまったのです。本来なら、JBが世界的なスターになっていてもおかしくなかったのです」(同)

 立野は91年に引退したが 、92年に新団体LLPW(現LLPW-X)の旗揚げ戦で現役復帰するも、後に引退し、現在は都内でバーを経営している。山崎も一時期引退していたが、86年8月に旗揚げした「ジャパン女子プロレス(ジャパン女子)」に移籍して復帰。結婚を機に引退後、夫婦で米・ニューヨークに移住して日本食レストランを経営。日本人レスラーが渡米した際にはバックアップしていた。JBは08年夏に4興行限定で復活し、往年のファンを喜ばせた。

 クラッシュが売り出された84年に全女に入門したのが、ダンプ率いる「極悪同盟」に加入することになるコンドル斉藤(57)だ。入門翌年の85年には極悪の一員となり、本名からリングネームに改名したが、86年には「全日本ジュニア王座」のタイトルを獲得し、同年にはブルのパートナーとして、JBとの「WWWA世界タッグ王座決定戦」に挑むなど着実に実績を積み重ね、87年には同タッグ王座を獲得し、同年の「全日本女子プロレス大賞」で技能賞を獲得。88年には師匠・ダンプの引退試合でブルと組み、変則マッチで対戦するなど活躍していたが同年4月、肩のケガが原因で、入門からわずか4年で引退した。

「当時からイラストが得意で、ダンプさんのメイクを手掛けるなど、かわいがられていました。『極悪女王』のクライマックスは、88年2月のダンプさん・大森さんの引退試合として行われたクラッシュとのタッグマッチでした。その試合前、ダンプさんの左腕に手の込んだ字体と立体感で『あばよ』と書き込む名シーンがありますが、あれを書いたのはコンドルさんだったはずです」(先の記者)

 引退後は本格的に復帰することはなく、イラストレーターとして活動しながら、都内の居酒屋を女将として切り盛りしている。

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