「自民党支持者は劣等民族」発言で“テレビ出演自粛”はいかがなものか 誰かを殺したわけではないのに(古市憲寿)

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「劣等民族」という言葉がSNSで話題になった。ジャーナリストの青木理さんが津田大介さんとの対談の中でもらした一言だ。

 なぜ日本では自民党支持者が多いのかという話題の中で、青木さんは冗談めかして「こんなテーマ、一言で終わりそうじゃない」と言う。津田さんの「なんですか」という問いかけに対して「劣等民族だから」と応える。それに対して津田さんは爆笑しながらも、何とか軌道修正しようとする、というのが一連の流れだ。

 言論は自由なので、自民党支持者を「劣等民族」と呼んでもいい。だが僕が気になったのは、青木さんがちゅうちょなく「民族」という単語を使っていた点だ。

 一般に青木さんは「左」や「リベラル」派の論客として知られる。だが2000年代まで、「左」の人々は「民族」という言葉を極めて慎重に用いていた。

 当時の言論界には、構築主義という思想の影響が強かった。構築主義では、「民族」は客観的に存在するというよりも、社会的な文脈の中でその都度、構築されると考える。

 例えば「日本民族」といっても、内実は時代とともに変わってきた。文化、言語、血統など、「民族」を定義する要素は多様で流動的だ。だが「日本民族」という用語は、太古から連綿と続いてきた純血の集団を想起させてしまう。

 つまり「民族」という言葉は排他性を帯びやすいのだ。「日本人」も同様である。「日本人に生まれたからお米のおいしさが分かる」と言う人がいるが、それは「日本人」以外にはお米のおいしさが分からない、という排他的な物言いに聞こえる可能性がある。

 構築主義は国家の存在さえ自明視せず、「虚構」や「想像の共同体」だと考えるから、「左」の反権力性と相性が良かったのだ。

 こうした話はある意味で2000年代の常識だった。その常識を前提とした上で、「右」はあえて「日本人」や「日本民族」という言葉を使い、その歴史や文化を誇示しようとした。それを「左」は批判して、より開かれた日本社会を構想しようとした。それなのに今は「左」が素朴に「民族」という言葉を使う時代になったのかと思うと感慨深い。

 青木さんの話には後日談がある。「劣等民族」発言を謝罪、撤回。当面は地上波テレビ番組の出演を見合わせると発表したのだ。間違ったと思うことを謝罪するのは勝手だが、出演自粛はやり過ぎではないか。これが先例になると言論空間は更に窮屈になる。

 言葉というのは、どこまでいっても言葉である。物理的に誰かを刺したり、殺したりしたわけではない。しかも「劣等民族」は特定の個人を攻撃した言葉でさえない。「劣等民族」発言に違和感を持った人は、言葉で反論すればいい。

「産経新聞」論説委員の川瀬弘至さんが青木発言を「自虐史観」という文脈で批判していた。こういう言論の応酬は存分にやったらいい。それにしても実に久しぶりに「自虐史観」という言葉を目にしたなあ。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2024年10月24日号掲載

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