「紅白初出場」を決めて西田敏行さんが漏らした「ありがとうな…」 元敏腕マネージャーが明かす秘話

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マネージャーの仲人を務める

 その後の西田さんはやっぱり館野氏に甘くはなかったものの、一方で親族同然と考えていた。西田さんは館野氏に「そろそろ結婚しろよ」と促した。当時の館野氏には交際相手がおり、2人の将来を親身になって考えたのである。

 仲人は西田さんが引き受けた。「オレがやるからさ」。名前ばかりの仲人ではなく、儀式のすべてを西田さん自身がやった。今も昔も芸能人がマネージャーの仲人をやることはまずない。西田さんは相棒である館野氏の幸せを強く願っていた。

 一方で、西田さんは若いころから大勢で飲み食いするのが好きだった。朝まで飲むことも珍しくなかった。

「根っから役者だから」(館野氏)。自分が飲み食いしたかったわけではない。周囲を楽しませたかったのである。石原裕次郎さん、勝新太郎さんら昭和の名優の流れを汲んでいた。その分、2003年に心筋梗塞、2016年に胆嚢炎を患うなど病気がちになってしまう。

 仕事面でも周囲を楽しませたがった。TBSの深夜放送「パックインミュージック」(1978年)のDJを務めていたとき、「負担が大きいから」と周囲は降板を勧めたが、聞き入れなかった。西田さんによるギターの弾き語りが看板コーナーだった。明け方まで嬉々としてマイクに向かっていた。

「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送)で2001年から19年まで2代目局長を務めた理由もそう。通常、売れっ子の大物俳優がバラエティー番組の進行役を務めたりはしない。ギャラもそう高くないのである。これも周囲を楽しませたかったからだった。

 一方、館野氏との関係は1980年代半ばで終わる。理由はある大型ドラマの番手だった。

 この大型ドラマは誰の目にも西田さんと別の大物俳優のダブル主演だった。だが、大物俳優の単独主演ということで話が進められた。局側の大物俳優への忖度である。これを館野氏が頑として認めず、局に対してダブル主演にすることを求めた。

 担当俳優の番手を順当なものにするのはマネージャーの責務の1つである。番手が下がると、次から良い役が来なくなる恐れがある。ギャラも下がりかねない。撮影現場で担当俳優が不快な思いをすることもある。

「ドラマも映画も主演を中心にまわっているんです」(館野氏)。結局、局側が粘る館野氏の求めを受け入れ、西田さんと大物俳優のダブル主演となった。

 ここで西田さんがある提案をした。局側が折れたのだから、今度は館野氏も一歩引かないかと言ったのである。西田さんは館野氏に「半年くらいゆっくり休まないか」と伝えた。気配りの人として知られた西田さんらしい判断だった。

 これに対し館野氏は「じゃあ辞める」と申し入れた。館野氏としては西田さんを主演に出来て満足だった。また、局に対して譲らなかったことによって、西田さんに万が一にも迷惑が掛かることを懸念した。

 館野氏の申し入れに西田さんは残念そうだったが、最終的には受け入れた。ケンカ別れではないから、その後も2人の親交は続いた。館野氏が安田成美のために成立した芸能事務所の役員にも西田さんは就いた。

 安田を手掛けるようになっていた館野氏が、西田さんが主演したNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」(1995年)の収録をスタジオにのぞきに行ったこともある。すると吉宗の衣装のままの西田さんは「おう、館野か。近う寄れ」と殿様言葉で話し、おどけた。もう担当俳優とマネージャーではないから、関係は穏やかだった。

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