「紅白初出場」を決めて西田敏行さんが漏らした「ありがとうな…」 元敏腕マネージャーが明かす秘話

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仕事では厳しい面も

 日本を代表する名優の1人、西田敏行さんが逝った。76歳だった。芸能界屈指の人格者として知られるが、仕事については厳しかった。1970年代から80年代に西田さんのマネージャーを務めていた館野芳男氏(ワイティー企画代表)が当時を振り返る。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

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 西田さんは温厚で優しい人だったが、仕事となると話は別。厳しい面もあった。そうでなかったら、一流の俳優にはなれない。

 1968年から劇団青年座に所属していた西田さんは、旧制中学の数学教師・山嵐に扮したNHK「新・坊っちゃん」(1975年)やTBSのホームコメディ「いごこち満点」(1976年)で頭角を現したが、3番手や4番手。十分な実力がありながら、大きな役がなかった。もう30歳を過ぎていた。

 そんなとき、西田さんとマネージャーの館野氏が勝ち取った初主演作が、日本テレビ「池中玄太80キロ」(1980年)。西田さんが血の繋がらない3人の娘(絵理=杉田かおる、未来=有馬加奈子、弥子=安孫子里香)を懸命に育てる泣き笑いの物語だった。主人公の玄太は愛情深く、ユーモラスな男で、西田さんのイメージがつくられる代表的な作品になった。

 この作品は続編、続々編やスペシャル版を含めると、1992年まで続き、西田さんの出世作になる。それでも西田さんは館野氏に甘い顔をしなかった。館野氏はのちに安田成美(57)もスターにした敏腕であるものの、ときには厳しい態度で接した。

 しかし、続編の挿入歌だった「もしもピアノが弾けたなら」(1981年)が大ヒットし、この年暮れの「第32回NHK紅白歌合戦」に出場が決まると、西田さんは館野氏に向かってポツリとつぶやいた。

「館野、ありがとうな……」

 福島県郡山市生まれの西田さんには東北人特有の照れ屋な面もあり、感謝の言葉をなかなか口に出来なかった。それが分かっていた館野氏は「あの言葉は忘れられない」と振り返る。

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