野良猫が歩けない社会は本当に幸せか? ドキュメンタリー映画「五香宮の猫」で“神社”に集まる猫に名前がある理由
「自分が参与している社会」を観察する
とはいえ、本作は想田監督の疑問を提起する内容でもない。人と猫、彼方立てれば此方が立たぬ。本作からそんな「揺れ」も伝わるのは、想田監督が「観察映画」の手法を貫いているからだ。
事前取材をせず、「可能な限り行き当たりばったり」でカメラを回し、ナレーションやテロップ、音楽を使わないといったその手法は、作品の結論すら観客に押し付けない。そもそも、本作の撮影を始めたきっかけが偶然なら、夫妻で画面に登場するのも成り行きだった。
「妻がある日『明日(TNR活動に)行ってくる』と言ったので、カメラを回すと面白いかもしれないと思ったんですね。その時はこれで映画を作るという明確な意図は特になかったんですが」
当初は猫たちを通して人間社会を観察するつもりだったが、移住者である夫妻も次第とその社会の一部になっていった。
「観察の対象である社会の一員になってしまったので、(画面から)自分を除外するわけにはいかないんですね。でも、これは僕の『観察すること』の哲学と合致します。僕はいつも『観察すること』とは『参与しながら観察すること』だと言っているんです。自分が何かを撮影する時、撮影するという行為自体によってその(現場の)状況は変わる。自分の存在によって変えられた世界しか、我々は観察することができない。人はおのずと『自分が参与している社会』を観察し、その一部になっているわけです」
猫たちは「顔のない集団」ではない
「撮る側と登場する側の関係を描くことによって、よりダイナミックなものが撮れる」とも想田監督は語る。猫たちの“名前”もこの関係を強調する効果があるといえるだろう。地域猫をそれぞれ名前で呼ぶ人もいれば、まとめて「猫」と認識している人もいる。
「我々が人間を相手にしても同じだと思います。1人1人の名前をしっかり認識できたなら、その人に対しておのずと敬意を払い、大事に扱おうとしますよね。ですが、彼らを1つの集団としてしか見ることができなくなると、『顔のない集団』として扱います。
相手が猫であっても同じことが繰り広げられるわけです。これは例えば、人種が関わってくる問題や何かに対するフォビアなど、人間が抱えているいろんな問題とも繋がっているのではないかと思います。私は、映画制作や映画監督の責務とは、1つ1つの個体にちゃんと顔を与えることだと思っています」
「共存」は難しい。けれど、どうにか道を見つけなければならない。潮風に包まれた小さな町の日常からは、今の世界が抱える大きな課題が静かに浮かび上がる。
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