みんな「キングメーカー」になりたがる 道長、秀吉…歴史を見れば一目瞭然の理由

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「古い体質」ではなく「人間の性」

 豊臣秀吉もそうだ。天正19年(1591)、甥の秀次を養子に迎えて関白職を譲ったが、はなから実権を手放すつもりなどなかった。さらには、茶々(淀殿)が拾(のちの秀頼)を産むと、秀次を切腹に追い込み、その遺児や側室、侍女、乳母ら三十数名を斬首してしまった。

 徳川家康も慶長8年(1603)2月、征夷大将軍に任ぜられたが、同10年(1605)4月、わずか2年あまりで将軍職を辞して、嫡男の秀忠に将軍宣下を行わせた。その理由は、将軍職を徳川家が世襲することを天下に示すためで、実権を手放すためではなかった。家康は同12年(1607)には駿府城(静岡市葵区)に移って、元和2年(1616)に没するまで、いわゆる大御所政治を行った。

 さらにいえば、江戸にいる秀忠の側近たちは本丸派、駿府にいる家康の側近たちは西丸派と呼ばれ、派閥の争いが起きている。

 むろん例外はあるが、多くの場合、最高権力を握ったことがある人物は、それを簡単に手放すものではない。意地悪な見方をすれば、それほど最高権力とは蜜の味なのであろう。もう少し好意的に見れば、一国のリーダーとして心血注いで整えてきた政策や路線を、維持し発展してもらうためには、後継に影響をあたえ続ける必要がある、ということだろう。

 派閥単位で動くのも、勝ち馬に乗ろうとするのも、自民党の古い体質の象徴であるかのように語られる。しかし、実際には「人間の性」のようなものではないだろうか。その意味では、人間が変われないように自民党も変われない。

 監視の目は必要だと思う。しかし、古い体質が一掃されることはない以上、過大な期待も禁物だろう。人間観察を楽しみながら、道義的に許されない姑息な動き、理不尽な動きにだけ目を光らせる。そのくらいのほうが建設的だと思うのだが。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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