みんな「キングメーカー」になりたがる 道長、秀吉…歴史を見れば一目瞭然の理由
派閥の領袖へのお伺い
9月27日に投開票が行われた自民党総裁選では、岸田文雄総理、菅義偉前総理、麻生太郎副総裁(いずれも当時)の3人が、乗るべき勝ち馬探しに必死だった。目的はいうまでもなく、キングメーカーとして影響力を維持することにあった。
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総裁選自体は、かつてないほどの危機感を背景に行われた。派閥による政治資金パーティーの不記載事件、いわゆる「裏金事件」を受け、有権者からの批判が渦巻いて党の信頼が失墜しているのは、自民党に関わるだれもが実感していた。そんななか、政権交代を阻止して党勢を回復できるリーダーを見きわめるのだから、総裁選びのプロセスもふくめ、自民党がいかに「刷新感」を出せるかに注目が集まった。
ところが、旧来の派閥ベースの動きが目立ったことに驚き、幻滅した人も少なくなかったようだ。
岸田前総理が「脱派閥」の方針を打ち出してから、自民党の6派閥のうち麻生派を除く5派閥はすでに解散を表明していた。しかし、ほんとうに派閥をなくせるのか。自民党はどこまで本気なのか。半信半疑の人が多いなか、やっぱりというべきか、選挙戦では派閥的な動きが目立った。
選挙戦の終盤には、「脱派閥」を訴えていた小泉進次郎候補が麻生氏と会い、一方、高市早苗陣営も、選対本部長の中曽根弘文元外相が麻生氏に面会した。すると石破茂氏も、麻生氏と菅氏を訪問した。とくに麻生氏は、総理として政権を率いていた当時、農林水産相として閣内にいた石破氏に退陣を迫られて以来、石破氏を嫌悪しているのは周知の話である。
それでも、選挙に勝つためには「派閥の領袖」にお伺いを立てなければいけない、という実情に、驚いた人も多いだろう。だが、麻生氏が高市氏への投票を指示したり、旧岸田派内に決選投票での石破氏への投票が指示されたりと、現実には「派閥の領袖」の意向が結果を大きく左右する。菅氏は「派閥の領袖」でこそないが、「菅グループ」と呼ぶべき大きな勢力を率いている。そうである以上、そこへのケアを抜きにしては選挙に勝てないということである。
「退陣」しても死ぬまで実権を握った藤原道長
こうした状況に対しては批判が多い。「脱派閥」を標榜した自民党だが、派閥から脱することなどまったくできていない。すべてはキングメーカーの座をねらう長老の思惑次第。長老支配にメスを入れるはずが、あまりに旧態依然――。総裁選の最中にそんな声が飛び交い、終了後も続いている。
しかし、三百数十人もの国会議員をかかえる政権与党において、派閥的な存在を失くすことも、いちど最高権力を握った人がそれを手放すことも、簡単にはできない。テレビのニュース番組が、「結局、自民党は変わっていない」と報じ、ワイドショーのコメンテーターがさらに厳しい声を重ねる。だが、人間が人間であるかぎり、自民党は変わらないのではないだろうか。
そのことは歴史を顧みても明らかである。たとえば、NHK大河ドラマ『光る君へ』で話題の平安王朝。ドラマを見ている人は実感できると思うが、藤原道長の長兄である道隆を祖とする「中関白家」の伊周らと道長の争いは、派閥抗争そのものであった。同じ一条天皇の後宮のなかで、皇后定子のサロンと中宮彰子のサロンが競い合ったのも、派閥同士の争いだったといえる。
そして道長は、絵に描いたようなキングメーカーであった。まず、文字どおりのキング、すなわち天皇をメークした。長兄の道隆の娘、定子が産んだ敦康親王を排除して、自身の長女である彰子が産んだ敦成親王を東宮(皇太子)にし、長和5年(1016)に即位させたのである(後一条天皇)。
こうして天皇の外祖父になると、念願の摂政に就任した。権威を背負うキングたる天皇のもとで、実験を握る事実上のキングになったわけだ。ところが、わずか1年で摂政の座を長男の頼通に譲ってしまう。権力欲が衰えたからではない。それどころか、道長はその後も万寿4年(1027)に没するまで、10年以上にわたって実権を握り続けた。
早々に摂政の座を長男に譲ったのは、後継体制を少しでも早く固めるため。人間、いちど経験した最高権力の味わいは、なかなか手放せないらしい。しかし、必ずしも称号は必要ない。むしろ、自分が摂政でいるよりも、摂政を動かせる立場にいるほうが、面倒な儀式から解放され、自由気ままに権力をふるえる。譲位した天皇が自身のもとに権力を集中させた院政も、こうしたキングメーカーによる政治の典型であった。
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