ドラフト「本当にあったいい話」 父親の命を救った「大洋」にドラ1指名で入団 「中畑清」はチームメイトの巨人入りを前代未聞の“直談判”

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息子が野球で球団に「恩返し」

 父親の命の恩人である球団から満願叶って指名されたのが、1987年の大洋1位・盛田幸妃(函館有斗)である。

 盛田の父・武男さんは24年前、底引き網漁船に乗って西カムチャッカ沖でサケ、マス漁を行っている最中に急性虫垂炎を発症し、意識不明の重体に陥った。海の真っただ中であり、普通なら助からないケースなのだが、大洋漁船団の母船「地洋丸」が近くを航行中だったことが幸いする。

「SOS!」の連絡を受けた同船は、20時間かけて現場に急行すると、同乗していた佐竹三夫医師が施設の完備した船内で緊急手術。一命を取り止めた。

「盲腸が破れていたそうです。私はもう意識がなくて……。あのとき来ていただかなかったら、命はなかった」(武男さん)

 以来、熱烈な大洋ファンになった武男さんは、甲子園で活躍した息子がドラフト候補になると、「幸妃に恩返しさせよう」と決意。ドラフト前に久野修慈球団社長が北海道の自宅を訪れると、「何位でもいいから」とお願いした。

 そして、ドラフトでは、長嶋一茂(立教大)の競合抽選でヤクルトに敗れた大洋が、外れ1位で指名。もし長嶋を引き当てていたら、盛田は他球団に1位指名されていた可能性もあり、まさに運命的な指名だった。

 武男さんは「息子が1位指名なんて金で買えない名誉です」と大喜び。盛田も「真っすぐで勝負できる投手になりたい」と父の恩返しを誓った。

 大洋入団後の盛田は、92年に最優秀防御率に輝くなど、先発、リリーフで活躍し、有言実行をはたした。

往復約120万円でヘリをチャーターし選手のもとへ

 入団に難色を示す選手に誠意を見せるため、ドラフト指名の翌日、ヘリコプターをチャーターして自ら指名挨拶に向かったのが、近鉄・佐々木恭介監督である。

 1996年、近鉄は「オリックス以外の指名なら会社に残留」と宣言した即戦力捕手・礒部公一(三菱重工広島)を3位で強行指名した。

 礒部は「高い評価はありがたいが……」と社交辞令を贈ったものの、最後まで笑顔を見せず、交渉は難航必至とみられた。

 近鉄は前年も7球団が競合した福留孝介(PL学園)を抽選で引き当て、「よっしゃあ!」という佐々木監督の“勝利の雄叫び”も話題になったが、意中の球団ではなかったため、入団を拒否されていた。

 そんな苦い経験を持つ佐々木監督は「少しでも早く、監督として気持ちを伝えたかった」と翌日、大阪・八尾空港から往復約120万円でチャーターしたヘリコプターに乗り込むと、最寄りの広島西空港へひとっ飛び。指名7選手の中で真っ先に礒部に会いに行った。

 この“サプライズ”には、礒部も「監督が直接来ることは予想してたけど、まさかヘリで来るとは……。あっけに取られました」と目を白黒。すでに前日の指名直後、友人に「近鉄に行くわ」と伝え、軟化しつつあっただけに、熱血監督の迅速な行動は入団に大きく背中を押した。

 近鉄入団後の礒部は、2001年に打率.320、17本塁打、95打点で12年ぶりVに貢献し、ベストナイン(外野手)に選ばれている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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