【追悼・大山のぶ代さん】「ドラえもん」降板を告げた時には「まだやりたい!」と…元プロデューサーが明かす制作秘話

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

続けるには新陳代謝が必要

《草創期は、アニメの制作費もできるだけ低く抑えようという時代でした。そんな中で、誰もが主役を務められる5人が集まっただけでも“これは大変なことをやっているな”と感じたし、力を入れなければと思いました》(「週刊ポスト」2004年12月24日号)

 放送初期の「ドラえもん」は手探りだったという。

「例えば、台本でしずかちゃんがのび太を呼ぶ際、『のび太くん』だったり『のび太さん』だったり、呼び方が統一できていなかったんです。そういう時に、しずかちゃんの野村さんが『女の子だから“さん”がいいんじゃない?』と言ったりして、みんなで作っていったんです。大山さんは『“バカ”とかそういう汚い言葉はそぐわないから使わないほうがいいんじゃないかしら』と指摘されたりして、だんだん『ドラえもん』が出来上がっていったんです」

 有名なのは、大山さんが発する「ボク、ドラえもんです!」のセリフも当初の台本にはなく、未来からやって来たネコ型ロボットの登場のセリフとして彼女が思いついたという。テレ朝版「ドラえもん」は大ヒットし、言うまでもないが今も放送が継続されている。

「当時のテレビアニメは長くても3〜4年で終了するものでした。それが驚異的な長続きをしているわけですが、放送20年が過ぎた頃、スタッフはこの先の20年も続けたいという欲が出てきた。『サザエさん』(フジ)などは声優さんが亡くなっても一人ずつ交代するシステムですが、『ドラえもん』ではそれはしたくないねと話していたんです。やっぱり子供からすると、亡くなって交代というのはどうなんだろうと。ですから、長く続けるには、声優さんはじめスタッフも新陳代謝が必要だろうと……」

「まだやりたい!」

 ちょうどその頃、大山さんに直腸がんが見つかった。彼女は「ドラえもん」以外の仕事をすべて降板して続投したものの、これを機に「ドラえもん」の降板を考えるようになる。スタッフに降板を申し出たが、彼女一人だけの降板は引き留められた。レギュラー声優陣の一斉交代が報じられたのは2004年11月のことだ。当時の新聞には大山さんのコメントが寄せられている。

《交代決定を受け入れた大山さんは「テレビ放送から二十五年がすぎ、ちょうどよい交代の時期。遠い未来までずっとずっとみんなに愛される『ドラえもん』であってほしい」と話している》(「東京新聞」04年11月22日)

 ところが、当初、大山さんの反応は違ったという。

「最初にお話しさせていただいた時、大山さんは『もっと私できます。まだやりたい!』とおっしゃっていました。ただ、『他の声優さんはもちろん、僕を含め作画監督から音響から全員が辞めます。番組のためにお願いします』と説得して、納得いただきました」

 初回放送から26年を経た05年3月18日、大山さんたちによる最終回「ドラえもん オールキャラ夢の大集合スペシャル!!」が放送される。平均視聴率は14・0%を叩き出した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯)。

 降板後の大山さんは、07年に音響芸術専門学校の校長に就任し、後進の育成に努めた。08年に脳梗塞を発症した後に校長を退任。12年にアルツハイマー型認知症との診断を受けた。夫の砂川啓介さんが大山さんの介護をしていたが、17年に砂川さんが死去。今年9月29日、大山さんは老衰のため都内の病院で息を引き取った。

「大山さんが亡くなって、レギュラー陣でご存命なのはしずかちゃん役の野村さんだけになってしまいました。亡くなったことが悲しいのはもちろんですが、声優さんたちが入れ替わり、今も『ドラえもん』が続いているのを見ると、あの時、判断して良かったのかなとも思います。もっとも、『ドラえもんはやっぱり大山さんがいい』って声を今でも聞くたびに、うれしいと思う反面で残念な気もするし、複雑な心境です」

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。