「現実は平和ではないし、五輪は商業主義になり過ぎた」 原爆投下1時間半後に生まれた聖火ランナーが伝えたかったこと(小林信也)
「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」、NHK北出清五郎アナウンサーの第一声が流れたのは1964年10月10日。台風による前日の荒天がウソのように晴れた東京・国立競技場に過去最多94の国と地域が集まる東京五輪開会式。最大の注目は聖火点火、その大役を任ったのが坂井義則だった。
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早稲田大1年の19歳。陸上男子400メートルで東京五輪出場を狙ったが、選考会で4位にとどまりかなわなかった。代わりに、予想もしない重責を託された。決め手は坂井が1945年8月6日、広島に原爆が投下された約1時間半後に、広島県三次市で生を受けたことだった。
海外の記者たちはアトムボーイと坂井を形容した。
最近は当日のその瞬間まで最終点火者を公表しないが、その時は約2カ月前、8月9日に内定が報じられ、18日に正式発表された。それから2カ月、坂井は注目の的となり、重圧に悩まされる。ノイローゼになりかけたとの報道もあった。内定を伝える新聞の見出しには、〈体力も成績も適格〉とあるから、「品行方正」も求められたのだろう。
当日、坂井に聖火をリレーする一つ前の走者は、桐朋女子中学3年の鈴木久美江だった。全国中学陸上の走り高跳びで優勝、中学新記録を出した実績を買われての選出だった。その鈴木の自宅にも段ボール箱2箱分もの激励の手紙が届いたという。当時の東京五輪への、そして聖火リレーへの関心の高さがよく分かる。
国立競技場の千駄ヶ谷門までの約400メートルが鈴木の担当。そこで坂井にリレーする。鈴木は事前に担当者から耳打ちされた。
「坂井が上がっているようだ。久美江ちゃん、何か話しかけてやってくれ」
この日、皇居前をスタートした聖火は順調に国立競技場に近づいた。裏腹に、選手の入場行進は少し遅れ気味だった。そのため鈴木が坂井の元に到着してから最後に聖火をつなぐまで少し余裕があった。その間に鈴木は坂井に声をかけた。
「坂井さん、大丈夫ですか」
すると坂井は言った。
「階段が少し心配だ」
やがて祝砲が3発鳴り響いた。それが聖火を引き継ぐ合図だった。鈴木は聖火をリレーし、坂井の背中を見送ってからメインスタンドに案内された。ちょうど坂井が美しいフォームでコーナーを曲がっていた。
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