江川卓、落合博満、野村克也…名選手が引退を決意した“瞬間” ノムさんが深く反省し、引退を決意した“出来事”とは

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 今年もヤクルト・青木宣親をはじめ、多くの選手たちが現役生活に別れを告げた。彼らはいつ、どんな出来事がきっかけで自らの限界を悟ったのか。球界を代表する3人のレジェンドの“現役引退を決意した試合”を振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】

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「このストレートがダメなら“おしまい”」(江川卓)

 最後まで速球へのこだわりを貫き通したのが、巨人・江川卓である。1983年夏に右肩を痛めた江川は、鍼灸などの治療を受けながら、苦闘を続けていたが、87年春ごろには引退を考えていたという。

 そして、巨人が4年ぶりの優勝を目前にした同年9月20日の広島戦で、江川は自らの選手生命を賭けて先発した。

 肩の調子も良く、速球も近年で最高の出来。初回に先頭の正田耕三を三ゴロ、山崎隆造、高橋慶彦を連続三振に打ち取った江川は、5回無死、法政大の後輩にあたる小早川毅彦に中前安打を許すまでパーフェクトに抑える。1対0の7回に小早川に同点ソロを浴びたものの、8回まで被安打わずか3、奪三振6と全盛期に近い快投を見せた。

 2対1で迎えた9回も正田を三直、長内孝を三振に打ち取り、勝利まであと1人。だが、高橋に一塁内野安打を許したことが、“ほころび”をもたらす。

 次打者・小早川に対し、江川は全球ストレート勝負を決意した。「『あるべき姿の江川卓』、すなわちストレートに賭けてみよう。それが駄目だったら、これで『おしまい』だと、僕は心に念じた」(自著「たかが江川 されど江川」 新潮文庫)。

 一方、小早川も「江川さんは絶対ストレートを投げてくる」と確信していた。相手のストレート狙いを承知のうえで、あえてストレートで勝負する。「『あるべき江川卓』の限界を測るには、願ってもない場面」だった。

 だが、カウント2-2から外角を狙った運命の109球目が甘く入り、小早川の打球は痛恨の逆転サヨナラ2ランとなって、広島市民球場の右中間席に吸い込まれていった。

 力対力の勝負に敗れ、速球投手としての限界を悟った江川は、日本シリーズ終了後の11月12日に現役引退を発表した。

「これはもう潮時かな」(落合博満)

 三冠王を3度達成した不世出の大打者・落合博満は、日本ハム時代の1998年を最後に44歳で20年間にわたる現役生活にピリオドを打った。

 同年、4月3日の西武戦で開幕4番を務め、猛打賞を記録した落合だったが、その後、打率は3割を切り、4月26日の西武戦から6番降格。7月以降はスタメンもわずか2試合と出場機会が激減したが、それでも「自分は日本ハムを辞めることになると思うが、それはあくまで自由契約による退団だ。現役へのこだわりがある限り、引退ではない」とアピールしつづけた。

 そして、シーズン最終戦となった10月7日の古巣・ロッテ戦、上田利治監督が先発DHでの起用を提案すると、落合は「オレは代打で出発した選手。だから、最後も代打でいいんだ」と辞退し、5回に代打で登場。黒木知宏の外角低め、141キロを打って一ゴロに倒れ、これが現役最後の打席となった。

 10月14日、体力の限界を理由に引退を発表した落合は、「いつ引退を決意?」の質問に対しては、「自分の中には明確な時期があるが、今この場で言うものではない」と言葉を濁した。

 その時期が明かされたのは、2022年10月28日に更新された自身のユーチューブチャンネルだった。

 シーズンの初めごろは、まだ引退を考えていなかった落合だが、千葉マリンのナイター(ロッテ戦)で、一邪飛を捕球しようとした際に、「(落下地点は)ここだろうなっていうところに入ったら、もう5メートルくらい後ろにボールが落ちた」。フライには絶対の自信を持っていただけに、「これはもう潮時かな」と考えたという。

 ちなみに同年、落合が千葉マリンで出場したのは、開幕直後の4月7日と延長10回に代打で出場し、1イニング(打者2人)ファーストを守った7月10日、前出の10月7日の計3試合だけ。該当する試合は特定できなかったが、打撃ではなく、思いどおりの守備ができなくなったことで自らの限界を悟ったのも、落合らしい幕引きと言えるだろう。

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