「軽んじられているものをかき集めると、ひとつのパワーに」 誰にもおもねらず“時代の記録者”であり続けた「山藤章二さん」の志【追悼】

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志を貫いて

 山藤章二さんの作品は単なる似顔絵ではなかった。描かれた人物の声が聞こえてきそうで、性格までも活写、書かれた言葉にクスッと笑わせられ、捉え方にハッとさせられた。

 その作風は1976年に「週刊朝日」で始まった連載「ブラック・アングル」で広く共感を得た。例えば同年、武者小路実篤が他界した際、あの「仲よき事は美しき哉」の色紙を模して、ロッキード事件に名前が挙がる田中角栄、児玉誉士夫、小佐野賢治の顔を描いた。一枚の絵で世相をつかむ批評性とユーモアでたちまち人気に。この連載は、2021年まで2260回も続いた。

 山藤さんは、80年、本誌(「週刊新潮」)の取材に〈ぼくの仕事の表現的特性は、“似顔”“言葉遊び”“トピックス”という、今まで軽んじられてきたものにあります。(中略)見捨てられ、軽んじられているものをかき集めると、ひとつのパワーになるということを、表現していきたいのです〉などと語っている。志の通りに新境地を開いた。

「人をおとしめることはなかった」

 37年、東京生まれ。父親は国鉄目黒駅の助役だったが、山藤さんが生後4カ月の時、肺結核で亡くなる。母親は駅の売店で働き、4人の子供を育てた。

 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)のデザイン科に進み、60年、ナショナル宣伝研究所に就職。63年に米子さんと結婚してほどなくフリーに転じ、文章の挿絵を描く道に進んだ。

 野坂昭如の『エロトピア』で文章の絵解きを超えたものを描く試みを始め、称賛される。これが独自の作風につながり、70年代に時の人に。

 音楽評論家の安倍寧さんは思い返す。

「時代や流行に敏感で私のように分野が違う人たちと座談会もしました。奥様と一緒に芝居などをよく御覧になっていたのも、役者の動きやしぐさを絵の参考にされていたのでしょう。私も描かれたことがあり、誰だったか宙を舞う歌手の足元にぶらさがっている姿でした。山藤さんに、ごめんなさいね、と謝られましたが、嫌な気はしませんでした。しゃれっ気であり、人をおとしめることはなかった」

 人物と一緒に描くものも現物や図鑑で調べた。ストレスからか胃潰瘍で胃の半分以上を切除している。

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