川端康成「ノーベル文学賞」から3年半後の悲劇…自死したマンションの住み心地を購入女性が語る
ちょうど56年前の1968年10月17日、川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞した。この快挙に日本は喜びの声であふれたものの、それから3年半後にまさかの訃報。仕事場として購入していた部屋で、遺体となって発見されたのだ。遺書はなかったが、発見時の状況から自死とされている。
その部屋は神奈川県逗子市の逗子マリーナにある。一歩入ると、南欧のホテルのように白で統一された室内。バルコニーの下にはヨットが並び、海の向こうに江の島と富士山が見える。文豪が最期を迎えたこの部屋が人手に渡ったのは2019年のこと。その住み心地を、購入者の女性が教えてくれた。
(2022年5月17日付記事の再配信、「週刊新潮」2022年5月5・12日号掲載記事をもとに再構成)
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川端の死後は所有物の保管部屋に
1972年4月16日の夜、古都・鎌倉にほど近いリゾートマンション・逗子マリーナの管理人室に「ガスの臭いがする」という通報が入った。警備員がお手伝いさんとともに川端の部屋に入ると、ガス管をくわえた本人の遺体が布団の中に横たわっていた。傍には封を切ったばかりのウイスキーが置いてあったが、遺書は見つからなかったという。
当時、川端は日本初のノーベル文学賞作家として文学界を背負って立つ存在だった。しかし、創作が思うように進まないことから極度の不眠症に悩まされるようになる。
「逗子マリーナは、そんな川端が鎌倉の本宅とは別に執筆のために使っていた部屋でした」
とは、川端康成記念會の理事で文芸評論家の富岡幸一郎氏。部屋は2LDKで、広さ約52平方メートル。事件当時、こたつや小机、ちゃぶ台などが置かれた和室の様子がマスコミで報じられている。
富岡氏が続ける。
「川端の死後、逗子マリーナの部屋に誰かが住むことはありませんでした。もっぱら美術品や川端の書いたものを保管しておく物置として使われていたと思います。一時は所蔵品の展示室にするという案がありましたが、マリーナは管理が厳しく外部の人の出入りが難しい。結局、売却することになったのです」
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