正式引退から今日で44年…なぜ「山口百恵」は愛され続けるのか 全楽曲を手掛けたプロデューサーの証言「光と影の両面を併せ持つ歌手だった」
「プレイバックPart2」の録音ではまるで女優
百恵さんが女優活動も行い、演技の勉強をしていたことも、歌手としての成功につながったと見ている。表現力が備わったからだ。
「歌、表情、ボディアクションのすべてに素晴らしい表現力がありました」
1978年に阿木・宇崎夫妻がつくった「プレイバックPart2」をレコーディングした際にはまるで女優だったそうだ。
「突っ張った女性を歌った楽曲でしたが、百恵さん自身、スタジオ入りする時から突っ張った女性になりきっていました。私たちとほとんど話さず、スタジオの隅のほうに行き、一人で座っていた。レコーディング中も突っ張った表情のまま。ところが、歌い終えると、これ以上ないような爽やかな笑顔を浮かべたのです」
女優としても第一線で活躍していた百恵さんにとって、約3分間の各楽曲はショートドラマのようなものだったのかも知れない。
「横須賀」を選んだのは阿木さん
百恵さんには音楽的センスもあった。酒井氏は、阿木・宇崎夫妻と百恵さんを結び付けた端緒が本人にあったことを明かす。
「百恵さんの多面性を生かすため、さまざまな作家に楽曲づくりをお願いしてしましたが、あるとき、私のアシスタントに百恵さんが『きのうの夜、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いたんですよ』と話したのです。それを伝え聞いた私は『なるほど、ダウン・タウンの突っ張ったイメージも百恵さんには合うな』と思い、竜堂さんに連絡を入れたのでした」
そして生まれた阿木・宇崎夫妻の第1弾は「横須賀ストーリー」(1976)だった。ヒットチャートで1位を獲得し、売り上げは80万枚を超えた。なにより、当時17歳だった百恵さんの幅が飛躍的に広がった。
「詞のテーマに『横須賀』を選んだのは阿木さんでした。百恵さんの生地です」
物語性の強い楽曲を好む酒井氏も満足する仕上がりだった。
♪急な坂道 駆けのぼったら 今も海が見えるでしょうか ここは横須賀――
「プロデューサーの私としては、売れてくれたら横浜でも良かったんですけどね(笑)」と冗談めかすが、この楽曲は横須賀と切り離せないものとなり、2008年からは京浜急行電鉄本線「横須賀中央駅」の電車接近メロディーにも使われている。
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