正式引退から今日で44年…なぜ「山口百恵」は愛され続けるのか 全楽曲を手掛けたプロデューサーの証言「光と影の両面を併せ持つ歌手だった」

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 44年前の1980年10月15日、「戦後最高のアイドル」と呼ばれた山口百恵さん(65)が正式に引退した。ラストコンサートはその10日前の日本武道館。ステージ上で「ありがとう。幸せになります」とファンに誓い、同年の11月から三浦百恵さんとなった。だが、人々の記憶に残る彼女の姿はいまもなお輝く不世出のスーパースターである。

 素顔の百恵さんはどんな人間で、なぜ愛され続けるのか。百恵さんの全楽曲を担当した音楽プロデューサー・酒井政利氏(2021年7月死去、享年85)は生前、その魅力は「光と影」にあると語っていた。

(2020年12月29日付記事の再配信)

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普段は明るくて清廉な人

 CBSソニーの敏腕プロデューサーだった酒井政利氏は、歌手としての百恵さんの育ての親。デビュー曲「としごろ」(1973)から引退ソング「さよならの向う側」(1980)まで全楽曲を担当した。

 百恵さんが愛され続けている理由を酒井氏はこう語る。

「光と影の両面を持つ人だったからです。普段は明るくて清廉な人なんですが、時折、影の部分も感じさせました」

 高い歌唱力を持っていたし、哀感を帯びた低い声も魅力的だったものの、最大の強みは光と影があったところだと酒井氏は指摘する。

「光と影を併せ持った歌手には立体感が生まれ、人を引き付ける力が増します。なにより、光も影もあると、明るい楽曲もドラマチックな楽曲も合うのです」

 確かに百恵さんは歌う楽曲の幅が広かった。阿木燿子さん(75)が作詞し、その夫の宇崎竜堂(74)が作曲した「乙女座宮」(1978)や同じ2人がつくった「しなやかに歌って」(1979)、などは明るく軽快で、まさに光を感じさせた。一方、さだまさし(68)が作詞作曲した「秋桜」(1977)や谷村新司(71)がつくった「いい日旅立ち」(1978)などは憂いに満ち、影を思わせた。

14歳のデビュー時からずっと真面目

 かと思えば、やはり阿木・宇崎コンビによる「イミテイション・ゴールド」(1977)や「絶体絶命」(1978)などはロック調で力強かった。

「さまざまな楽曲を歌えたのは、光と影を持っていた上、大変な努力家でもあったからです。新曲のレコーディングの際は『あんまり勉強できませんでした』などと言いながらスタジオ入りするのですが、いざ歌い始めると、どの楽曲も完璧に自分のものにしていた。例えば『秋桜』は音域が広く、難しい楽曲なんです。それでも百恵さんは一生懸命に勉強し、歌ってくれました。いつもそうでした」

 真面目だったそうだ。その姿勢は14歳のデビュー時からずっと変わらなかった。

「デビューした当初は音域がやや狭く、だからフォーク調で音域が狭くても歌える『としごろ』を用意したのですが、本人が積極的にレッスンを受け、すぐに音域を広げました。そのころは言葉少なな少女でしたが、いつも私たち大人の話を真剣に聞いてくれていたのをおぼえています。だから、私たちもいい加減なことは言えませんでした」

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