満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】

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ロシア連邦から届いた1枚の証書

 京の里山の夕刻。昔日を思い起こして疲れはてた病身の岡本さんに、無理を押して最後の質問をしてみた。

 ――『草原の記』にも引用された回顧録のなかの、食を絶って自死したというくだりは、どこで手に入れた情報でしょうか。

「戦後しばらくは、(ウルジンの)最期は、はっきり分からなかったんですな。ただ、ウルジンさんを知る人たちが引き揚げ後、だれかれとなくそう言い出しましたのやろ」

 その噂は、いかにもウルジンにふさわしい、愚直なまでに誠実な末路だった。実際のところ、彼はソ連軍事法廷の17回の審問の末、2年後の春に日本の特務になったとする罪で死刑宣告を受け、すぐに銃殺されている。1947年3月13日のことである。享年58歳であった。

 あれから50年以上の時が流れ、冷戦の主役であったソ連邦はあっけなく内から崩壊し、追ってモンゴル人民共和国も自ら社会主義を放棄してしまった。現在、ハイラル公園の寺田の銅像は跡形もなく失せ、そこにソ連の戦勝記念塔だけが残っている。生前ついに安住の地を見つけることができなかったウルジンの名誉は、1992年になってロシア連邦によって回復された。

《新憲法第3条第1項とロシヤ連邦法律により、政治的鎮圧処刑された犠牲者の名誉回復する規定によりガルマエフ・ウルジンの名誉回復を決裁した。

 ロシヤ連邦検察院 検察庁助理
 ゲ・フ・ウエスノスカ
 1992・6月23日》

 といっても、ロシア政変の都合で、こんな内容の証書が1枚、遺族のもとに届いた。それだけのことだった。

 ***

 絶望的な混乱のなかでも、不器用さゆえかそれとも義理か、最後まで満州国軍中将としての務めを捨てられなかったウルジン。第1回【満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」】では、寺田の三男が実際に会ったウルジンの印象を証言している。

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部

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