満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】

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今をときめくウルジン将軍

 ウルジンの暮らしぶりは質素で、ハイラルの公館には長男が暮らすだけ。妻やほかの家族は、市街地から40キロ以上離れたシニヘイの集落にゲルを結び、昔ながらの牧畜生活を守り続けた。本人もときおり草原の空気を吸いに帰った。

 たまの日本人来客があれば、まずシニヘイに招き、馬乳酒と日本酒を振る舞い、和やかにブリャート流の歓迎をしたという。

 昭和11年の「月刊満州」(満鉄旅客課発行)に、当時の雑誌記者らしき人物の短い草原旅行記が4ページに渡り掲載されていた。

 モンゴル族伝統のオボ祭を取材した際にシニヘイで一夜を明かした雑記だ。いまでいうどたばた旅行記で、内容にさして見るものはないのだが、一行のために「今をときめくウルジン将軍」自ら軍服の上着を脱いで、ゲルをこしらえたとある。筆者は深夜小用に外に出た際、蒙古犬に激しく吠えられる。

「ホウホウの態で包(ゲル)に遁込んだ。ローソクの火影をすかして見ると、夢かうつつかウルジン将軍ニコリと微笑している」

 と記しているが、「眼前にいびきをかいて寝ていた大坊主」(同記事)は、案外根っからの温厚な牧人で、時代が許せば軍服などとは無縁だったのかもしれない。

 ウルジンは凌陞事件後も、満州国の中枢を外れることはなかった。頻発するモンゴル人民共和国国境での小競り合いの処理のため司令部と国境地帯を往来し、一方で政治的解決を目指す満州里会議の満州国側代表として、話し合いにも臨んだ。

 仮に満州国と日本への懐疑心を密かに抱いていたとしても、彼はもう「満州人」として引き返せないところまできていたに違いない。

私には構わなくともよい

 ソ連が怒濤のごとく満州国国境を越えて、ハイラルに迫ったのは昭和20年8月9日早朝だ。興安軍官学校長に就任して間もないウルジンは、校内に非常呼集をかけた。岡本さんの着任から10年目の夏のことである。おりしも、身重だった岡本さんの奥さんはハイラルの病院に入院中だった。戦闘地域に向かう支度に追われながら、ウルジンが右腕である通訳官に出した指示は意外だった。

「私には構わなくともよい。岡本、お前は奥さんの面倒をみなさいと命令を下された。で、このとき私は任務を解かれて自由になったわけです。おかげで、苦労はしたけど昭和21年の7月に、とうとう家族を全員引き連れこの家に辿りつきました」

 恐らくウルジンは、来るべき満州の末路をはっきり悟ったのだろう。非常呼集を最後に、この2人が再会することはついになかった。

「いつも一緒でしたね。御神酒徳利(おみきどっくり)のような」とは、昭和10年から2年間、警備軍顧問部のタイピストを勤めた公宅静江さん(茨城県在住)が語る、仲むつまじいモンゴル人将軍と通訳官の様子だ。2メートルもの長身のウルジンと150センチしかない通訳官が肩を並べて歩く姿は、ちょっとしたハイラルの名物だったようだ。

 その様を面白がったウルジンは、「岡本、おまえと俺でふたりで一人前やな」とたびたび言ったらしい。いまも岡本さんは、「えらくやさしい顔で言われる」上官のこの口癖を気に入っている。

モンゴル系の反乱に呼応せず

 ソ連侵入による動揺はたちまち伝播し、国軍部隊は、銃口を日系軍人に向け出した。崩壊の勢いは止まらなかった。ハイラルはたちまち蹂躙された。

 ウルジンは、モンゴル系部隊の反乱を必死で留めようとしたらしい。岡本さんも、避難途中に会った軍関係者を通じ、ウルジンが説得のため戦線を駆け回っていることを耳にしていた。そして、その説得が焼け石に水であることも。

 絶望的な混乱のなかでもウルジンという人は、よほど不器用なのか、亡き寺田への義理か、最後まで満州国軍中将としての務めを捨てられなかったようだ。モンゴル系の反乱に呼応することなく、万策尽きた8月30日、新京に入城したソ連軍に自首している。

 ウルジンの自首に立ち会ったという証言を探すことはついにできなかった。

 もっとも自首したという最後ですら、最近になってソ連側の記録から明らかになったことである。

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