満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】

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ウルジンさんもこれで終わりかと

「凌陞さんいうのはな、寺田さんがもっとも信頼していたモンゴル人のひとりだったわけです。事件は関東軍中央の判断でハイラルの特務機関は関係しておらなかったと思いますが、いまだはっきりは分かりません。もうウルジンさんもこれで終わりかと、そんな出来事でしたわ」

 凌陞一派の粛清には、いまもって岡本さんも首をひねる不明な点が多く残されている。凌陞逮捕後、戒厳令下のハイラルで、寺田は通訳官の岡本さんを呼び、険しい顔で指示を出した。

 日本憲兵がウルジン将軍宅に身柄拘束に向かうかもしれないので、君は常に将軍の身辺を警護し、夜は将軍宅に泊まりなさい。もし、なにかあればすぐに私に電話連絡するように。これは寺田自身にとっても危険な行動だった。

 このころ、病身の寺田の右半身の自由はほとんどなく、敬礼も左手であったらしい。

 岡本さんは、昼は警備軍司令部でウルジンと仕事をし、夜はウルジンの公館で就寝する生活に入り、固唾を飲んで関東軍の出方を待った。

死ぬことはいつでもできる

 ウルジンという軍人は、始終静かでめったに感情を表面に出す人間ではなかったらしい。危機迫る凌陞事件の渦中でも、通訳官に見せる顔は、

「取り乱すことなくいつもと変わらない生活ぶりだった」(岡本さん)

 のち悲惨な結果に終わったノモンハンの第2次戦闘でもこんな場面があった。

 第23師団の小松原道太郎中将の指揮下に入ったウルジンの興安北分省警備軍部隊はソ連軍を一時撃退した後、激戦のバルシャガ高地の窪地に司令所を構えたが、前面に出すぎ圧倒的な敵軍のなかに孤立する。司令所には日蒙混成で30人ほどの将兵がいた。

 とうとう日本人顧問がウルジンに、

「全員自決するより仕方があるまい。覚悟されたい」

 と渋い表情で詰め寄ったが、ウルジンはまるで応じなかった。落ち着き払ったまま通訳官の岡本さんにこう伝えさせた。

 死ぬことはいつでもできる。なにか方法があるだろう――と。

「私は、このときほどウルジンさんを頼もしく思ったことはなかったですな」

 数時間後に部隊は夕闇をついてトラックに飛び乗り、弾雨のなか全員無事に退却を遂げている。

将来を語り合った盟友を守る大仕事

 凌陞事件はハイラルに暗い影を落とした。しかしウルジンは生き残った。新京に呼び出されて簡単な取り調べを受けただけで、処刑を免れたのだ。

「寺田さんの力」と岡本さんは確信している。裏で、寺田が軍中央の強硬派をかろうじておさえたというのだ。

「びっくりしましたわ。部屋に入ったら、(取り調べは)最高顧問(佐々木到一少将、満州国軍政部最高顧問)ひとりだけですわ。顧問は、いすに掛けさせてから、外蒙との内通の事実はあったのかと、まず聞かれました。ウルジンさんの人生というのは、ずっと共産主義との戦いでしたからな。そんな私がどうして外蒙と通じることができましょう、仏に誓ってありませんときっぱり言わはった。そしたら、そうですかって。それだけで終わったんです」

 半ば拍子抜けしつつも、ふたりの緊張が最高潮に達した取調室での一語一語を岡本さんは忘れることが出来ない。事件後間もなく、寺田は公館で倒れ、そのまま息を吹き返さなかった。関東軍から、ホロンバイルの将来を語り合った盟友を守ることが、寺田最後の大仕事となった。

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