満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】
第1回【満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」】からのつづき
関東軍(日本陸軍の満州駐留部隊)の主導により、1932年3月に中華民国からの独立と建国を宣言した満州国。清朝の「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)に据えた満州国は、1945年8月のソ連参戦で崩壊した。この際にモンゴル系軍人の反乱が起ったことは旧知の通りだが、阻止を試みたモンゴル系軍人もいる。少数民族の指導者としてモンゴルをさまよい、ある日本人との固い絆に導かれて満州国と出会ったガルマエフ・ウルジンだ。ノンフィクションライターの駒村吉重氏がその生涯を追ったルポ第2回では、謎多き「凌陞事件」やウルジンの最期を追う。
(全2回の第2回:「新潮45」2010年12月号「歴史の闇に葬られた満州国のモンゴル人将軍」をもとに再構成しました。文中の年代表記等は執筆当時のものです。文中一部敬称略)
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必ず蒙古人の立場に立って考えなさい
ウルジンがハイラルで寺田(利光、陸軍の軍人)と再会を果たしたころ、日本国内では「混みあいますから満州へ」という政府キャンペーンのキャッチフレーズが巷に踊っていた。
「日本じゃ働き口がなくて、失業者があふれてた。ああ、もうこんな狭い日本ではやっていかれんと思ったわけです」(ウルジンの通訳官を長年勤めた岡本俊雄さん)
父親から贈られた日本刀を手に昭和10年3月に、岡本さんは日本を後にしている。同じ月、大阪外国語学校蒙古語部を卒業したばかりだった。向かう先は、建国間もない満州国北西部のホロンバイル草原。満州の行政区分では興安北分省となる。
満鉄の急行列車がハルピンを発ってから8時間もすると、興安嶺の稜線が見え出す。山麓を突っ切ると、そこはどこまでも続く草の原、ホロンバイルである。草原を走ること2時間ほどで、人口5万ほどの中心市街地・ハイラルに着く。
満州建国の翌年、ここにモンゴル人部隊を中心とする興安北分省警備軍が設立される。軍の体裁を早急に整備すべく、幹部育成や兵の教育が急ぎ進められていた。その中心となったのは寺田とウルジンだった。
そこに警備軍付の蒙古語通訳としてやってきた岡本青年は、赴任早々寺田にこう言い渡される。ここではどんな問題も必ず蒙古人の立場に立って考え、解決していきなさい。
「そんな方ですから、寺田さんは心からウルジンさんを信頼されていましてな。ま、互いに肝胆相照らす仲というのですかな」
満州国軍騎兵上校(大佐)として新国家に迎えられたウルジンは、当時、警備軍参謀長になっていた。長身に100キロ近い体重。「あたかもジンギス汗を連想さす」と岡本回顧録にはある。一方の寺田は警備軍顧問の肩書きだった。
凌陞事件
その事件は昭和11(1936)年4月に起こった。興安北分省長だった凌陞(りょうしょう)はじめ北省の主要官僚4人が、ソ連とモンゴル人民共和国に内通し満州国から独立を図ろうとした罪で突如、憲兵に逮捕されたのだ。面々は、軍トップにいたウルジンとも多岐に渡り交流があった。
事件の中心人物とされたモンゴル系ダフール族出身の凌陞は、父・貴福の代から続くホロンバイル一の名家の出だ。満州国皇帝溥儀の妹と凌陞の息子の婚約がほぼ成立しかけていたときである。
逮捕された4人はすぐに新京に移送され、関東憲兵隊司令官の東条英機少将の決裁で間もなく銃殺となった。事件にからみ多数のモンゴル系官吏が役職を追われた。
ホロンバイルに騒然とした空気が流れ、岡本さんが詰める司令部はじめ官公庁では、日本人への「面縦腹背」(岡本回顧録)の態度が鮮明になっていった。
凌陞が本当に独立を企てたか、ことの真相はいまだに闇の中だが、意のままにならない省長交代の機をうかがっていた関東軍の謀略説も根強い。新京で開かれた省長会議の席で凌陞は、満州国政府の土地政策に対しかなり率直な意見を述べている。会議を終えてハイラルに戻ったとき駅ですぐに逮捕された。モンゴル系実力者への捜索は凌陞の自白という理由でウルジンにも及んだ。
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