満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」

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「テラダ」と名乗った日本人

 昭和2(1927)年の秋だというから、彼らがシニヘイに居住許可をもらい受けたころだろう。ハイラルの白系ロシア人宅に招かれていたウルジンを、セミョーノフに仲介されたひとりの日本人が訪ねてくる。研究調査のため、ブリャート族をひとり紹介してほしいと頼み込んでいた30代後半の男の容姿は、

「支那服を纏ふておられ、體躯堂々、それに非常に顔が綺麗で、支那人か日本人か判らない程であつた」

「テラダ」と名乗った日本人は、モンゴル語を学ぶ留学生として、ハイラルの地に入っていた。

「そうですな。寺田さんはモンゴル語も使われましたが、ウルジンさんとの会話は全部ロシア語だったですよ。私の通訳はまったく必要なかったですね」

 岡本さんはそう記憶している。

 出会ってからのウルジンはハイラルに用ができると、必ず寺田の自宅を訪ね「色々親切にお世話になっていた」(ウルジン記)。しかし、寺田は数カ月後に突然ハイラルを後にしてしまう。遠方のシニヘイから偶然ハイラルに出かけてきていたウルジンは、駅に寺田を見送った。記述はこう続く。

「帰国とは知らせず、間もなくハイラルに戻ってくるから、そのときは一緒に仕事をやろうと言って堅く握手して別れた切り」

 再会の約束を寺田が果たすのは5年後の秋、昭和7(1932)年である。

満州国に傾いていく人生

 寺田は再会当時、ハイラル特務機関の中枢を任され、ウルジンはシニヘイの族長となっていた。時局もまた大きく転回を始めた。前年に奉天で勃発した満州事変の戦火が拡大し、この春には満州建国宣言がなされていたのだ。

 ふたりは、ハイラルの目抜き通りに古くからある日本人商店のなかで、「時の過ぐるのも知らずに語り明かし、ホロンバイルの将来について意見をたたかはした」(ウルジン記)。

 ウルジンの人生が満州国に一気に傾いていくさまが見えるようである。

 実際には寺田は、ウルジンと別れてから2度ほど国際運輸会社の社員「松石高」の名を使うなどして、ホロンバイル(内モンゴル自治区北東部、フルン、ブイル両湖あたりの草原)に潜入していた。ブリャート以外のモンゴル系種族や小軍閥の動向をうかがっていたらしい。建国間もない当時、辺境のホロンバイルにはまだ関東軍兵力を配備できずにいた。ウルジンはブリャート騎兵部隊を率い、ホロンバイルで勃発する幾つかの小軍閥の反乱を鎮めるなど、寺田の任務を助けていった。

「骨の髄まで反共の人ですな」と岡本さんが言うウルジンが、新国家にどんな夢を見たかは知る由もないが、現実問題として、ブリャートの行き場は八方塞がりになっていた。「五族協和」をうたう新国家に、生きる場所をこじ開けるよりなかったのだろう。「満州人」として死ぬ覚悟を、ウルジンは、すでにこのときにしていたのかも知れない。

「あたかもジンギス汗」

 ウルジンが己の人生とブリャートの将来を賭けることになる寺田は、大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人である。

 寺田利光は、明治22(1889)年東京の生まれで、父親も陸軍軍人。陸軍中央幼年学校出の陸軍士官学校22期生である。砲兵少尉として任官し、陸軍砲工学校に進んでいる。一方で、幼年学校時代から学んでいたロシア語の才は誰もが認めるところだったらしく、大正14(1925)年には、新たに軍委託学生として東京外国語学校(現東京外大)に入学し、専修科蒙古部でモンゴル語の勉強に励んでいる。さらに卒業直後の昭和2年6月には、10カ月間の予定で内モンゴルに私費留学を果たす。ウルジンと初めて出会ったのはこのときだ。

 寺田の名は、大正7年のシベリア出兵を契機にして「特務機関」の名が日本陸軍史上に初めて登場して間もなく、すでにその陣容のなかに見ることができる。

 初編成時は、ウラジオストック、ハバロフスク、ハルピンなど9機関。反革命分子が多いウスリー・コサックの指導を任務とするハバロフスク機関(機関長・五味為吉大佐)に、投入されている。以降彼は、白系の戦線を追うようにシベリア・内モンゴル地域を転々として、やがて満州にまで白系人脈を抱え込んでいく。ウルジンもそのひとりである。

 建国後に、興安北分省警備軍顧問に就いた寺田は、昭和12(1937)年7月16日にハイラルで病死している。陸軍砲兵大佐だった。

 しかし、彼は死後、情報戦を巧みに戦った軍人の功績としてはおよそ似つかわしくない奇妙な足跡をホロンバイルに残した。その死を嘆き、ホロンバイル一帯のモンゴル人と白系ロシア人が申し合わせ、ハイラル公園に寺田の銅像を建てたのだ。建設費用はまったくの民意でまかなわれたという。

実にやさしい目をしてらした

 寺田利邦さんは、寺田の三男である。東京都府中市の自宅に、家族にあてた手紙が残されていたが、膨大な手記などはさる事故のため喪失し、ウルジンに関する手がかりもすでになくなっていた。

 利邦さん自身も2人の兄に続き陸士に学んだが、任官前に満州の航空士官学校で終戦を迎えている。数えで5つのときに別れた父・利光の記憶はほとんどない。ただ、利邦さんは一度だけウルジンに会ったことがあった。

 寺田がまだホロンバイルに健在だった昭和10年ごろだ。ウルジンは公務で東京に入り、帝国ホテルで日本に残る寺田の子供たちに会って手みやげを渡している。利邦さんは、その土産をいまも大切に保管していた。モンゴル民族伝統の携帯用はしとナイフ、美しい織り柄の財布。財布のなかには、帝政ロシアのものと思われるきれいな紙幣などが数枚、時を止めたように丁寧に収まっていた。

「立派な体格でしたね。堂々としていて、ちっとも威圧的じゃなくて、実にやさしい目をしてらしてね、子供ながらああ立派な方だなって思いましたね。チョコレートをもらったのが本当にうれしくて」

 少年の目に映ったウルジン像である。

 ***

 ソ連赤軍と戦い、一族を率いて北の草原に逃れたウルジン。運命の扉を次に開いたのは大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人・寺田だった。第2回【満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】】では、ウルジンと寺田の深い絆や、最後まで中将としての務めを捨てられなかった姿、その後の「名誉回復」までをお伝えする。

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部

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