満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」

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 関東軍(日本陸軍の満州駐留部隊)の主導により、1932年3月に中華民国からの独立と建国を宣言した満州国。清朝の愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)に据え、1945年8月のソ連参戦で崩壊する経緯は、さまざまな文章や映像などでおなじみのものだろう。そこに存在したモンゴル系軍人たち、たとえばソ連軍への投降を選び反乱を起こしたジョンジュルジャブはその名をよく知られている。

 一方で、この反乱を止めようとしたモンゴル系軍人もいた。一族の存亡をかけてモンゴルをさまよい、満州国と出会った少数民族の指導者、ガルマエフ・ウルジンである。司馬遼太郎氏がかつて「この数奇なモンゴル人」と綴ったウルジンは、ある日本人と固い信頼関係を築いていたという。2010年、ノンフィクションライターの駒村吉重氏がウルジンの通訳官だった人物を訪ねた――。

(全2回の第1回:「新潮45」2010年12月号「歴史の闇に葬られた満州国のモンゴル人将軍」をもとに再構成しました。文中の年代表記等は執筆当時のものです。文中一部敬称略)

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数奇なモンゴル人

 曲がりくねった細い路地を挟み、小さな畑地や素朴な門構えの民家が並ぶ里山である。

「加茂駅(JR関西本線)からタクシーで高田まで、村の入り口に理ハツ店があり、其処を右に入り100メートル程の処で左に入って、石垣の家です」

 と、平成12年の10月に送られてきたはがきにはある。50年以上も昔、ある人物の通訳官を長年勤めた岡本俊雄さんという方が、奈良県境にほど近いこの京都の里に、高齢ながら健在であることを知って、幾度か手紙の往来を重ねていた。

 ある人物とは、中国大陸に突如出現しわずか十数年で消えていった満州国の中将だったブリャート・モンゴル族、名をガルマエフ・ウルジンという。

 ようやく見つけたお宅の縁側に靴を脱ぐと、まず、奥の間の鴨居に掲げられた額入りの白黒写真2枚が目に入った。1枚は軍服姿の上半身。もう1枚は草原で馬上手綱を取る姿。ソ連侵攻前に岡本さんが自宅に送っていたもので、現存するウルジンの数少ない写真だった。写真の真下のいすに米寿を超えたばかりの岡本さんが深く腰を降ろしていた。

「チタに住むご家族でさえ、戦争の混乱で一切の写真をなくされて、これを(焼き増しして)贈りましたら、たいそう喜ばれまして」

司馬遼太郎は「この数奇なモンゴル人」と

 それほどに、この人物に関する遺留品はじめ、記述などのたぐいは少ない。ただ、歴史に葬られたそのモンゴル人将軍の影は、岡本さんが卒業した大阪外国語学校蒙古語部の後輩にあたる司馬遼太郎氏の『草原の記』(新潮文庫)のなかに、かすかにだが留められている。

 話は昭和10年代の内モンゴル平原に及ぶ。建国への理想と失意が交錯する満州国の末期。言いがたいその気配を描写する素材として、司馬氏は、岡本さんが戦後にウルジンを偲んで認(したた)め、親しい友人らにだけ配った回顧録『一人の「ブリャートモンゴル人」と日本青年の出合い』をひもとく。

『草原の記』から引くと、ロシア革命後に中国領に入ったウルジンは、のち満州国軍中将になり興安軍官学校長まで任される要人となるが、終戦の年に「ソ連軍にとらえられ、食を絶って自死したという」。波乱の人生を歩んだウルジンを、「この数奇なモンゴル人」と司馬氏は言葉少なに語っている。

 確かに、ウルジンの生涯には、想像を絶する時代の荒波が幾度も寄せている。辛亥革命を皮切りに、ロシア革命、モンゴルの共産化、満州国の出現。そのたび、モンゴル少数部族を率いる彼は、一族の存亡を賭けた岐路に立つ。かのノモンハン戦では、国境をへだてて同族のモンゴル人と壮絶な戦闘を繰り広げるに到るが、しかし満州国は数年後、あっけなく滅びた。

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