制作費2000万円を「僕らの音じゃない」でやり直し… 「SLT」佐藤竹善が語るバンドの原点と挑戦

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第1回【歌謡曲好きの少年は、ビートルズ、フォークの洗礼を受け…「佐藤竹善」に警察官の夢を捨てさせた“運命の一枚”とは】のつづき

 大学在学中から藤田千章とともに活動を始め、1988年にバンド「SING LIKE TALKING」(SLT)としてデビューした佐藤竹善(61)。作風に大きな影響を及ぼしたのはAOR(アダルト・オリエンタル・ロック)の先駆者でもあったボビー・コールドウェルだった。自身の中にある最善のポップを常に追い求め続けて、バンド、ソロともに活動を続けてきた。

(全2回の第2回)

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キーボードを駆使して

 藤田に詞を任せ、バンド当初は中学時代から慣れ親しんできたギターを使って曲を作り、模索を始めた。コードを弾きながらの制作だったが、ボビー・コールドウェルの曲は、当時の知識では書けない曲ばかりと感じた。そこでキーボードを購入。これが変化をもたらした。

「鍵盤を押さえていけば、自分の中から出てくるメロディを再現できるんです。同じ和音でも、ベース音を変えれば聞こえ方も変わる。それがSLTの音楽の原点となり、最初のアルバムの曲の半分以上はその作り方でした。当時はコードを知らないコンプレックスもあったんですが」

 佐藤の幼馴染だったギターの西村智彦を加え、SLTとなった3人のファーストアルバム「TRY AND TRY AGAIN」の制作時、スタジオミュージシャンから、コードを知らずに作るやり方を変えない方がいいとアドバイスされた。コードを知っていれば便利だが、知識があればある程度、理論に沿った形になりがち。佐藤の曲にはそうした概念が当てはまらず、その良さがあったからだ。

船山基紀のアレンジを白紙に

 実はこのアルバムでは、当初、名アレンジャーの船山基紀がアレンジを手掛けていた。だが完成に近づいた頃になって、佐藤はプロデューサーの武藤敏史にこう申し出た。

「すいません。僕らの音とは違うと思いまして、やり直したいんです」

 すでに制作費は2,000万円に上っていた。申し出を「若気の至り」では片付けられない状況だったが、武藤は「分かった。その代わり、船山さんには自分から言えよ」と佐藤に告げた。意を決して船山のもとへ行くと「うん、ぼくもその方がいいと思うよ」。自身のスタジオにあったシンセサイザーなどを自由に使っていいとも言ってくれた。

「いま聴けば幼稚な部分もあるけれど、当時は自分の思ったものを100%音にできたと感じていた」

デビュー5年半で初のアルバム1位

 出したい音を形にしたアルバムだったが、セールスは芳しくなかった。2枚目のアルバム「CITY ON MY MIND」はさらに売り上げが下降。それでも毎年、アルバムを発売し続け、4枚目の「0 [lΛV](ラブ)」でようやくオリコンチャートトップ100入りを果たす。その後、5枚目の「Humanity」が3位、6、7枚目の「ENCOUNTER」「togetherness」はいずれも1位を獲得した。初のアルバム首位はデビューから5年半が経っていた。

「世の中の技術的な進歩と音楽的な変化や広がりが相まって、初期の頃は、アルバムを3枚出すごとに音楽性が変わって行きました」

 その変化には海外レコーディングの影響も大きかった。マーケットの大きい米英には、オールマイティではないものの、ある1点においては他の追随を決して許さないようなスタジオミュージシャンや、あらゆる提案をしてくれるエンジニアがいた。特にエンジニア的な視点は、後に自宅レコーディングを始めてからも、3人に大きな影響を及ぼしていると語る。

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