【追悼・小泉信一さん】病床で思いついた「渥美清さん」から始まる連載コラム…担当記者が振り返る“余命宣告”されても「生き抜くために書き続けた」最期の日々

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「来週、電話するから」

「まいったな。がんが転移して、余命を宣告されてしまったよ」

 昨年の暮れ、小泉さんから電話で告げられた。聞くのは怖いが、確認しなければならない。答えは「2年」だった。

「でも書くよ。書き続ける。連載は止めないよ。編集長にも言っておいて」

 その言葉の通り、原稿は途切れることなく毎週届いた。一方で、検査や入院などで病院へ行く日も多くなっていく。会う約束をしても、当日になって体調が悪かったり、急な検査が入ったり……。そんな中、あれは4月の初め頃だっただろうか。

「余命2年と言われたけど、それが短くなるかもしれないって……」

 気が沈んでいる時の小泉さんの口調は、いつも極めて冷静だった。自身に突きつけられた厳しい現実を冷静に受け止めようとしていたのだろうか。それでも、新潮新書での書籍化の決定には、「よし、この連載を本にして残す。目標ができると元気が湧いてくるんだ」と明るい声で語っていた小泉さん……。

「ゴメン、今週は休ませて。来週、電話するから」

 9月24日の昼過ぎに交わした電話が最後となった。次回のテーマは浅草芸人のローカル岡さん(1943~2006)を書くことまで決まっていた。写真の手配をしてくれる編集部員が岡さんの写真を準備してくれており、あとは原稿を待つだけだった……。

「俺が死んだら身内で葬式をして、火葬した後で会社に連絡するように」

 生前、小泉さんはこう語っていたという。奥様からその話を聞いて、筆者は思わず言ってしまった。

「渥美清さんと一緒ですね」

「友人・知人の方からは面白い人だと思っていただけますが、身内からしたら厄介で面倒くさい人で(笑)……普段は本当に寅さんにそっくりでした。あちらで渥美清さんとお会いできているかな、と思います」

 小泉さんが旅立った10月5日は土曜日。全69回、63人の人生の最期を追った「メメント・モリな人たち」の配信日でもあった。

 今頃は天国で渥美さんや関さんたちとワイワイやっているのだろうか……。すっかり涼しくなった東京の空を見上げるたび、美味しそうにホッピーを飲み干す小泉さんの笑顔が浮かんでくる。

デイリー新潮編集部

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