デビュー40周年の長山洋子が振り返る「ASKA」「中原めいこ」「中島みゆき」ら豪華作家陣との思い出 「みゆきさんは私のことをまとめたノートを作ってくださって……」
デビュー直前に演歌歌手からアイドル路線へ……急な変更をどう受け止めた?
ポップス部門第3位は、「ヴィーナス」に次いでユーロビート・カヴァーの連続ヒットとなった「ユア・マイ・ラブ」、第4位がデビュー曲「春はSA・RA SA・RA」に。ここで、デビューまでの経緯を改めて尋ねてみた。
「幼稚園のころに、父の影響で民謡を習い始めました。お稽古で歌っていたのは民謡でしたが、学校に行けばピンク・レディー、テレビの『ちびっ子のど自慢』のようなオーディション番組では、石川さゆりさんをよく歌っていました。石川さんの曲は、特に『暖流』がお気に入りで。とにかく民謡も歌謡曲も演歌も、なんでも歌うのが好きでした! 小学生の頃は、荻野目洋子ちゃんと出場する番組がよく被っていて、荻野目ちゃんは山口百恵さんを歌っていましたね。彼女は、早々に3人組(アイドルグループ『ミルク』)でデビューしてすごいなと思いました。
それで、私のほうはビクター少年民謡会に最年長の中学3年まで所属し、その翌年から演歌デビューを目指して、作曲家の市川昭介先生のもとで1年間レッスンを受けていました。作詞は阿久悠先生、作曲は市川先生で、デビュー曲まで決まっていたんです。仮のレコーディングまで済ませていたところ、“やはり演歌は早すぎるだろう”ということと、当時はアイドル全盛期というのもあって、急きょ路線を変更することになったんです」
長山は幼少から培ってきた民謡や演歌での実力者ゆえに、その決定に抵抗はなかったのだろうか。(ちなみに幻のデビュー曲「雪国」は、’98年にアルバム「市川昭介メロディーを唄う」に初収録され、ダウンロードで聴くことができる。)
「いえ、もう、あれよあれよと決まっていって、10代の私が意見を言う間もなかったですね。私服やヘアスタイルもアイドルらしいものにするように言われて、ついていくのに必死でした。その頃に仲良くしてもらっていたのは、高校のクラスメイトだった桑田靖子ちゃんや岡田有希子ちゃん、田中久美ちゃんです。デビュー1年目こそ、新人イベントや賞レースで、とても忙しかったのですが、2年目から仕事が激減してしまい、焦りが出てきたのはその頃からですね」
長山は、デビュー直前のポップス路線変更、「ヴィーナス」でのユーロビート路線変更、さらにその後もヒット路線を開拓しようと、シングルリリースのあった’84年から’90年の6年間でも、実に多彩な楽曲を提供されている。具体的には、ASKAによる「ゴールドウィンド」(第7位)、中原めいこの「ハートに火をつけて」(第13位)、遠藤京子の「悲しき恋人たち」(第14位)、中島みゆきの「肩幅の未来」(第18位)、高見沢俊彦の「KOIKO」と錚々たるシンガーソングライターから楽曲提供を受け、2ndシングル「シャボン」(第5位)もサザンオールスターズ(桑田佳祐が作詞・作曲、原由子が歌唱)のカヴァーだ。
「本当に豪華ですよね! ASKAさんへの依頼は、私がCHAGE&ASKAさんなどヤマハ系のアーティストが大好きだったのを意識されたのかも。でも、基本的にみなさん個性の強い方ばかりで、聴いている時と、実際に自分がその世界に入るのとでは大違いなんですね。特に、中原めいこさんの『ハートに火をつけて』は、歌ってみると、“こんなにブレスの箇所がないんだ!”って驚きました。それでご本人に尋ねたら、“息が続くギリギリまでブレスを入れないようにして意識して作っている”っておっしゃっていたので、頑張って歌いました。『肩幅の未来』は、作詞が中島みゆきさん、作曲が筒美京平先生で、曲を作るにあたって、実際にみゆきさんとお会いしてました。みゆきさんは私についていろいろと質問してはノートにまとめて、歌詞にしてくださったんです。(歌詞中に出てくる)壊れかけたラジカセは持っていませんでしたが(笑)」
これだけ多彩な作家陣だと、生で聴いてみたいという人も多いのではないだろうか。
「今もコンサートでは、いろいろな曲調を披露するようにしています。『ヴィーナス』も歌ってはいますが、ポップス系だけを集めたコンサートは、ちょっと自信がなくて、演歌転身後はできていないんです。周りからは、“やってみたら”と言われるのですが(苦笑)」
アイドル時代も、昭和中期の歌謡曲「雲になりたい」を歌い、演歌転身後も歌謡曲調の「捨てられて」を歌うなど、もはやポップスと演歌の境い目なくさまざまな楽曲が歌える彼女なら、まったく問題ないだろうし、あとはタイミング次第なのかもしれない。
次ページ:新作「白神山地」では三味線に苦労、共演中の細川たかしは「まさに、あのまんま(笑)」
[2/3ページ]