「親離れができていない」「たくさん助けたけど一方通行」 石破首相の「決定的な欠陥」を恩人らが指摘

国内 政治

  • ブックマーク

「学校の先生の方が合ってるんじゃないかってくらい真面目」

「石破くんとは当選1回目から俺が落選して辞めるまでずっと一緒だよ。俺が初当選した時は50歳で、当時最年少で当選した彼とは20歳以上離れていた」

 と話すのは、笹川堯(たかし)元科学技術政策担当相(89)。

「彼は田中派に入りたかったんだけど、鳥取県には田中派の平林鴻三さんがいた。中選挙区制の当時、同じ選挙区に同派閥の人間が二人というわけにいかず、彼は渡辺美智雄先生のところに預けられた。彼とは議員会館の部屋が隣同士だったので、渡辺先生からは“隣にしたから面倒みてやってくれ”と言われていました」

 出会った頃の印象は、

「とにかくクソ真面目。学校の先生の方が合ってるんじゃないかってくらい真面目だった。まだ彼が若かった時、彼の選挙の応援に行ったら、あいつ山の中での演説で北朝鮮や韓国とか38度線の話を熱く語っていてね。“こんなところで38度線の話なんかしても票にならないぞ”と忠告したことがある。ちょっとズレているんだけど、それくらいクソ真面目で一生懸命なんだね」(同)

「あいつが俺の選挙区で応援したことは一度もない」

 そんな石破氏に「オタク」の一面があることはよく知られている。

「彼は電車が好きだから鳥取から東京まで飛行機じゃなくわざわざ電車に乗って帰るんだ。俺も鳥取まで選挙の応援に行った帰りに一緒に夜行列車に乗りましたよ。ゴトゴト揺れるもんだから俺はあんまり眠れず、“あいつはよく寝られるな”と思ったよ」

 そう振り返る笹川氏が不思議に思っていたことがある。それは、

「俺はあいつの選挙をかなり応援したんだけど、あいつが俺の選挙区で応援したことは一度もないんだ。それを指摘すると、“先生、来いって言わないじゃないですか”と言うんだ。つまり、“来い”って言わないと来ない。たくさん助けたけど一方通行。真面目というか何というか……」

 90年2月、2回目の衆院選は鳥取県全県区でトップ当選を果たした石破氏。93年6月には宮澤喜一内閣不信任決議案に与党の一員でありながら賛成票を投じ、後に自民党を離党。小沢一郎氏や羽田孜氏が率いる新生党に合流した。

次ページ:「親離れができていないということ」

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。