「親離れができていない」「たくさん助けたけど一方通行」 石破首相の「決定的な欠陥」を恩人らが指摘
「日本で起こることは全てこの目白で決めるんだ」
石破氏の父親、鳥取県知事や自治大臣を務めた石破二朗氏は“田中のためなら死んでもいい”というほど田中元首相に心酔していた。いまわの際(きわ)の二朗氏から「葬儀委員長をやってくれ」と頼まれた田中元首相は彼の死後、東京で盛大な「田中派葬」を催し、
「石破君、きみとの約束を俺は今日、こうして果たしているぞ」
葬儀委員長として泣きながら弔辞を読んだという。
この葬儀のお礼を言うために東京・目白の角栄邸を訪ねた石破氏は、父の跡を継いで政治家になるよう田中元首相に言われる。逡巡する石破氏に対し、
「日本で起こることは全てこの目白で決めるんだ、分かったか!」
と迫った田中元首相に押し切られる形で政界入りすることになったのだ。
“辻立ち5万回、個別訪問3万回”の教え
石破氏は1957年2月4日、東京・千代田区で生まれている。翌58年、父親が鳥取県知事に就任したため鳥取県に転居し、鳥取大学附属小学校、中学校に通った後、慶應義塾高校から慶應義塾大学法学部に進み、当時の三井銀行に就職。田中元首相の勧めに従って同行を退職、田中派(木曜クラブ)の事務員になったのは石破氏が26歳の時のことだった。
「当時の彼は、銀行員上がりの真面目な青年、そのままの印象です。トラブルも全くない、優等生でした」
朝賀氏がそう述懐する。
「田中派はどんどん選挙の手伝いに行かせる事務所だったから、石破を含めた皆が田中流選挙を学んだ。オヤジは“辻立ち5万回、個別訪問3万回”とか皆に言っていて、石破もそのオヤジの言葉は今でも覚えていると思います」
大学の同級生だった佳子さんと結婚したのは田中派の事務員になった約6カ月後の83年9月。衆議院選挙に初出馬、初当選を果たしたのは86年7月、中曽根康弘政権下で行われた衆参同日選挙だった。
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