アントニオ猪木vsマサ斎藤「巌流島決戦」は「無観客試合」ではなかった! 「船頭さんに頼んで船を出してもらって……」プロレス史に残る名勝負の全舞台裏

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あきらめなかった猪木ファン

 決戦直前、放映権を持つテレビ朝日から、一つの提案がなされた。勝った方に勝利者賞として賞金を出すという。これを猪木も斎藤も、断った。

「これは俺と猪木の真剣勝負なんだ。賞金なんていらんよ」(マサ斎藤)

 試合は「ノーレフェリー」「時間無制限」「互いのプライドがルール」とされた。さらに、リングは衝撃を和らげるためのスプリングが抜かれ、場外カウントはもちろんなく、猪木と斎藤は、文字通り野試合さながら、草むらを転げ回った。午後4時半の試合開始から1時間28分後、夜の帳が降りる中、照明代わりの篝火が点火された。リング内での斎藤のバックドロップを受け、猪木は「受け身を一歩間違えれば死んでた」と振り返った。

 斎藤はこの試合で胸を骨折しており、リングドクターの富家孝はこう診断した。「おそらく(リング内で食らった)猪木さんのドロップキックでしょう。カウンターで物凄い当たり方をしてましたから」。

 試合は2時間5分14秒、斎藤をスリーパーホールドで場外で絞め落とした猪木が、設置された勝者用のゲートをくぐり、ルール上、猪木の勝ちとされた。だが、実は斎藤を絞め落としてから、ゲートをくぐるのに、猪木が5分以上かかっていたのは余り知られていない。何度も転び、視界も効かず、瀕死の状態だったのだ。試合佳境の、象徴的な猪木の呟きを、集音マイクが拾っている。

「斎藤……。死ぬまでやるぞ……」
「死ぬまでやろう……。男だったら……」

 船で島に着いた時、猪木は1枚の紙を携えていた。「私に万が一の事態が起きたる時は」と書かれていたそれは、一種の遺書だった。この2日前、猪木は長年連れ添った愛妻、倍賞美津子と離婚していた。後年、筆者が猪木にインタビューした時、「人生で一番ショックだったこと」に、この離婚を挙げていた。

 斎藤はこの2年前、正当防衛ながら警官を殴打した罪でアメリカの刑務所に収監された。こちらもその間、家族から離婚を切り出され、応じざるをえなかった。収監中の斎藤に猪木から以下の手紙が来たのは、その後しばらくしてからだったという。

〈また、リングで戦おう。日本で待っている〉

 翌日、特番枠で放送された猪木vs斎藤の瞬間最高視聴率は、17.7%を記録した。

 負けた斎藤は若手の手により、控えのテントに運ばれた。時を同じくして猪木は即座に帰港する船に乗せられた。この瞬間の写真は、ほとんどの媒体で載っていない。斎藤への対応で、マスコミ陣が非常に手薄になっていた中、声が響いた。

「猪木っ!」
「猪木―!」

 猪木ファンたちだった。いったいどこにいたのか? 前出の男性は語る。

「あの時、巌流島が市の持ち物だったのは一部(3分の1)で、残りは企業(三菱重工)の持ち物でした。確か、金網で区切られていたと思いますが、そちらに隠れたと聞いています。試合が始まると、木に登って見たとか……。羨ましかったですよ。だって、僕らは夜になると、対岸からではさっぱりリングが見えなくなっちゃったから(笑)」

 現在のようなSNS時代なら炎上するかも知れない猪木ファンたちの無軌道かつやんちゃぶり。そして、尋常ではない熱さぶり。猪木自身は、どう思っただろう? と三回忌を機に考える。愉快そうにニヤリと笑うと考えるのは、筆者だけだろうか。

 試合を報じた翌日のスポーツ紙には、早朝のファンたちの来島とともに、以下の事実が報じられている。

〈結局、猪木の血だらけの凱旋を目撃できたのは数人〉(スポーツニッポン、1987年10月5日付)

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