アントニオ猪木vsマサ斎藤「巌流島決戦」は「無観客試合」ではなかった! 「船頭さんに頼んで船を出してもらって……」プロレス史に残る名勝負の全舞台裏

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 10月1日は、アントニオ猪木の三回忌だった。また、2024年は猪木のライバル、マサ斎藤の七回忌でもある。猪木は後年、盟友の葬儀には、「行くと騒ぎになって、逆に迷惑をかけてしまうので出ない」ことを旨としていたが、マサ斎藤の逝去時は、斎場の近くまで愛車を走らせ、車内で悼んだという話が伝わっている。

 この2人の最大の死闘と言えば、1987年10月4日、山口県の無人島・巌流島でおこなわれた一戦だろう。1612年、宮本武蔵と佐々木小次郎が一騎打ちした歴史的な地であることもさることながら、観客を入れずにおこなったことでも知られる伝説の試合である。近年のコロナ禍では、全国紙でこんな記事にもなっていた。

〈一部を除き無観客となった東京五輪。ネットでは、巌流島であったプロレスの試合が「無観客の元祖」「時代の先取り」などと盛り上がっている〉(朝日新聞西部版朝刊。2021年8月5日付)

 だが、この巌流島決戦、実は無観客試合ではなかった。秘話を含め、真実を辿りたい。

アイデアは藤波だった

 巌流島決戦のプランが持ち上がったのは、1987年8月だった。新日本プロレスの中継番組である「ワールドプロレスリング」(テレ朝系)は当時、毎週火曜日の夜8時から放送されていたが、10月の改編期を機に、2時間の特番枠が取れそうだという話が出て来た。だが、特番に値する肝心の大型企画が見当たらない。新日本はこの年の3月に猪木のデビュー25周年を記念して大阪城ホール大会をおこなったが、メインの猪木vsマサ斎藤が、海賊男という謎のマスクマンの乱入でぶち壊され、激怒した観客が大暴動を起こし、会場に放火される騒ぎになっていた。半ば逃げるように会場から退出しようとする猪木の足にファンが平伏してすがりつき、こう言ったのは有名だ。

「なんとかして下さい……」

 だが、悪いことはさらに重なる。翌4月より、「ワールドプロレスリング」にバラエティの要素を取り入れた「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」が始まると、それまで最低でも2桁以上は取っていた視聴率が、5.1%と衝撃的な急降下(※数字は初回放送分)。後に筆者が会食したプロレス・マスコミの重鎮で、「ゴング」編集長も務めた竹内宏介さんが、「僕ね、あの日から新日本プロレス、録画するの辞めたんです」と明かすほど目に余る味付けで、ファンの心も、急速に離れつつある時期だった。

 10月の特番に当てる企画はないか――新日の営業部次長(当時)の上井文彦が思い出したのが、番組が変わった4月、山口県の高台から巌流島を見下ろした時に、藤波辰爾が口にした言葉だった。

「武蔵と小次郎の巌流島……。あそこで僕と長州が闘ったら、絵になるね」

 このアイデアを上に提案すると、意外にも猪木が乗り気になったのである。相手にはマサ斎藤を熱望、事前から決めていたかのようだった。しかも運の良いことに、巌流島は前年まで、全てが三菱重工の所有物だったが、この年より、3分の1が下関市の所有になっていた。活用法を模索していた市側も猪木側の申し出を了承し、特番枠も確保、世紀の一戦への準備は、急ピッチで進められた。

 新日本の事務所の壁には、巌流島の全景の地図が貼られ、猪木と懇意だった大塚製薬はポカリスエットとカロリーメイトの上限無しの無料提供を申し出た。巌流島には筆者も行ったことがあるのだが、完全な無人島で、島を紹介するチラシには、「タヌキに逢える……かも?」とあるほど荒涼とした土地であり(※偶然にも本当に逢えたが)、当時は水道施設すらなかった(現在は水洗トイレはある)。実際、試合当日は、新日本プロレスから取材陣に弁当が、朝8時と昼の2時の2回、提供されている(なぜ早朝からかは後述)。

 そのため、客を入れることなど及びもつかず、やむなく無観客試合とすることに。猪木はこの設定に至極満足そうだったが、テレビ朝日から出向していた役員は激怒した。無観客試合ではテレビ的にも映えないし、客を入れないなど、興行会社としては論外だった。やむなく1口10万円で、猪木と斎藤への応援の幟を募集すると、最終的に124本が集まった(猪木応援が80本、斎藤応援が44本)。

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