阪神、連覇ならず! 岡田監督の「歴史的V逸」を振り返る…ライバル球団に叩きのめされた“負の歴史”

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“アレンパ(連覇)”を合言葉に、球団では戦後初のリーグ2連覇を目指した阪神だが、シーズン終盤の追い上げも1歩及ばず、V逸となった。1期目と併せて今季で通算7シーズン目の岡田阪神は、毎年優勝候補に挙げられながら、V逸は今季も含めて5度目。そんな虎ファンにとってもどかしい“負の歴史”を振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】

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「岡田阪神」就任1年目の苦い記憶

 まずはチームを18年ぶりVに導いた星野仙一前監督のあとを受けた就任1年目の2004年。2年連続二桁勝利のムーアが抜けた投手陣が不安視されたが、野手は鳥谷敬らが加わり、「連覇する力は十分ある」とみられていた。

 開幕後、阪神は勝ったり負けたりを繰り返しながらも、混戦のなか、4月30日から4連勝し、5月3日に貯金「2」で首位に立った。だが、前年ほどの勢いはなく、同26日に横浜に0対4で敗れ、中日に首位を明け渡してからは2勝7敗と急失速。さらにロード中の8月8日から1勝9敗と大きく負け越し、連覇は絶望的に。新外国人・キンケードや前年13勝の伊良部秀輝が戦力にならなかったのも誤算だった。

 その後、8月21日から8連勝で勝率5割に戻し、「また再出発のつもりで」と岡田監督が仕切り直しを宣言したのもつかの間、8月31日から首位・中日に3連敗で11.5ゲーム差。事実上終戦となった。

 中日にはナゴヤドームで11連敗を喫するなど、10勝18敗と大きく負け越し。最下位・横浜にも12勝16敗と分が悪かったのでは、優勝の翌年にBクラス(4位)転落も致し方のないところだった。

藤川球児の“涙のお立ち台”

 翌2005年の阪神は、打線が5回までにリードを奪い、ウイリアムス、藤川球児、久保田智之の最強リリーフ陣“JFK”で逃げ切る必勝パターンを確立。2年ぶりのV奪回をはたしたが、連覇を狙った06年は一転苦戦を強いられる。

 5月27日に単独首位に立つも、久保田、今岡誠と投打の主力に故障が相次ぎ、6月以降ズルズル後退。さらに登板過多の影響で右肩の張りを訴えていた守護神・藤川球児も首痛を併発し、8月12日に登録抹消されると、同22日から5連敗。首位・中日と9ゲーム差に離された。

 8月27日の巨人戦、18日ぶりに復帰の藤川が連敗ストップの立役者となり、「ファンの皆さんもチームが連敗して悔しいと思いますけど、選手も本当に……悔しい気持ちでやってるんで……。まだまだファンの皆さんのために……頑張っているということを、わかってください」と涙ながらに訴えた。

 この“涙のお立ち台”を機にチームは一丸となり、9月14日まで11勝1敗1分と上昇気流に乗る。2連敗後の同17日からも再び白星街道を驀進し、9月29日の中日戦も4対0と快勝。怒涛の9連勝で2ゲーム差まで追い上げ、「プロ野球70年の歴史にもない追い上げ」と中日・落合博満監督の肝を冷やさせた。

 だが、翌30日の直接対決は1対7と敗れ、中日はマジック7に。阪神も10月3日から3連勝と最後の粘りを見せたが、同8日、巨人に延長10回の末、1対5で敗れ、ついに力尽きた。

 この年も9月16日に山本昌に史上最年長のノーヒットノーラン(41歳1ヵ月)を記録されるなど、苦手のナゴヤドームで1勝10敗。岡田監督も「追い上げたといっても、優勝争いしているチームに分が悪過ぎる。ナゴヤドームで9も借金したら……」とぼやいたように、ライバルの本拠地で勝てなかったことがV逸の最大要因となった。

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