万年最下位の大洋を優勝に導いた名将「三原 脩」 早大時代に見えた“魔術”の片鱗(小林信也)

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早慶戦で本盗

 三原を語る時、忘れられないのがライバル・水原茂だ。2歳上の水原と三原は中等学校でも対戦している。高松中の三原は27年の四国予選準決勝で水原の高松商に敗れ、甲子園出場を阻まれた。水原は投手兼三塁手として全国制覇を2度成し遂げた。水原は慶應義塾、三原は早稲田に進む。31年6月、早慶2回戦での「三原のホームスチール」は有名だ。

 2対2の同点で迎えた7回表、慶應のマウンドに水原が上がった。1死後、三原の四球をきっかけに2死満塁となった。首位打者の弘世正方が左打席に入った。早稲田ファンは誰もが弘世の快打を期待した。水原は打者との勝負!と、ワインドアップで投げた。これを見た三原が、2球目に猛然と本塁に走った。意表を突くホームスチール。これが見事に決まってリードを奪い早稲田が勝った。

 早稲田の大先輩で記者の飛田穂洲(とびたすいしゅう)は朝日新聞で、「三原の冒険は勝因とはいえ定法はずれ」と非難した。が、三原はそれを気にする人間ではなかった。作家の三好徹が『男たちの決闘 昭和の名勝負伝』に記している。

〈意表をつく戦法や作戦をとって、局面を打開させることが多かった。(中略)成功した場合でも邪道であるといわれた。要するに、常識に反している、と非難するものが大半だったのだ。

 三原は、常識にとらわれなかった。〉

「バントでしょ?」

 西鉄が3連覇を達成した伝説の58年日本シリーズ、巨人3勝の後の4連勝は三原監督対水原監督の戦いだった。いくつもの勝負のあやがあり、三原魔術が随所でさえた。

 真骨頂は、第5戦。与那嶺要の3ランで先制した巨人が有利に試合を進めた。が、勝てるとみた三原は4回から連投の稲尾和久を投入する。そして1点差に追い詰めた9回裏、先頭の小淵泰輔が二塁打し、無死二塁のチャンスを作った。水原はここでエース藤田元司を投入する。打者は豊田泰光。バントだ、と思ったが三原は「打って返すか」と耳打ちした。すると豊田の方から「ここはバントでしょ?」と来た。豊田からそれを言わせたのだ。2死後、打者は当たりの出ていない関口清治。巨人ベンチは逃げ切れると安堵した。三原は関口に耳打ちした。

「藤田はインローのシュートで勝負してくる。それを待ってピッチャー返しでいけ」、詰まり気味の打球が藤田の足元を抜けた時、三原は勝利を確信した。「次にきっと誰かが打つ、私はそう信じた」と後に自伝に書いている。

 予感どおり10回裏、サヨナラホームランが生まれた。打ったのは投手の稲尾だった。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2024年10月3日号掲載

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