【光る君へ】母・紫式部に猛反発した「賢子」 貴公子たちと浮名を流し大出世するまで

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天皇の乳母になって大出世

 そして、万寿2年(1025)に、道長の六女の嬉子が産んだ親仁親王の乳母に任ぜられてから、大きく運が開けた。長暦元年(1037)までに、東宮権大進の高階成章と再婚して一男一女をもうけ、寛徳2年(1045)に親仁親王が即位すると(後冷泉天皇)、典侍(後宮の事実上の長官)に任ぜられた。なにしろ天皇の乳母なのだ。官位は最終的に従三位にまで上りつめている。

 位階のない女房だった母はもとより、正五位下止まりだった祖父をはるかに超える出世を遂げたのである。そして、夫の高階成章がかつて、太宰府の次官の一人、太宰大弐の役職にあったことから、夫の「大弐」と賢子の位階の「三位」を組み合わせて「大弐三位」と呼ばれた。前出の歌集『大弐三位集』は、この名に由来する。

 成章が天喜6年(1058)に没したあとも活躍を続け、没年ははっきりしないが、承暦2年(1078)に行われた歌合に参加した記録はある。歌人として認められ、女房としては明らかに母を超える活躍をしたといえる賢子。『光る君へ』で描かれたような母との確執は、もしかしたらあったかもしれないが、だからこそ母の背中を追いかけ、ある意味、乗り越えた人生だったのではないだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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