「幻想を振りまく政治と決別せよ」 石破新総理が野党時代に熱く語っていたこと

国内 政治

  • ブックマーク

 10月1日新総理となった石破茂氏は、自民党総裁選で次のように語っていた。

「国民の皆様方は、自民党を信じていないかもしれない。しかし私は、国民を信じて逃げることなく、正面から語る自民党をつくってまいる」

 これは昨今の「政治とカネ」「統一教会問題」を念頭に置いての言葉だと理解されているが、実のところこれは石破氏の一貫した主張でもある。自民党が野党だった頃、民主党・野田政権時代に執筆した著書『国難』でもほとんど同じフレーズが登場している。また、語られている主張はほぼ今回の総裁選でのものと変わらない。

 そして、ここで語られているリーダー論はそのまま現在の彼への反発への答えともなっている。今回に限らず、「これで日本は滅びる」「日本経済壊滅」等々、総理大臣の顔が変わるたびにネット上にあふれる「絶望論」。岸田前総理はもちろん、安倍元総理の時にも同様の現象は見られ、その傾向は強まるばかりである。

 同書で石破氏は小渕恵三元総理や小泉純一郎元総理の例を引き合いに出しながら、彼の考える「リーダー像」を熱く語っている。政権発足直後の内閣支持率が50%前後と低調な出足となったことが話題の石破新政権だが、小渕内閣の例を念頭に置き、焦る必要はないと考えているのかも――(以下、『国難』より抜粋・肩書などはすべて当時のものです)

 ***

強いリーダー幻想

 私と同じ昭和32年生まれには、現総理の野田佳彦さん、自民党幹事長の石原伸晃さんなどがいます。幼少のころは敗戦の傷がまだ随所に残っていて、「日本は戦争に負けたのだ」ということをよく教わりました。新幹線開通、東京オリンピック、大阪万博などに象徴される高度経済成長期に育ち、バブル経済のうたかたの繁栄とその崩壊を体験してきた世代です。団塊の世代とも、生まれたときから豊かな日本が当たり前という世代とも、違っています。

 我々の世代は、いにしえの世代と次の世代にいかなる責任を負うべきなのか──。最近私は、こう自問自答することが多くなりました。

 現在のように日本全体が自信喪失の状況になると、「国力相応とはこんなものだろう、ほどほどの幸せがあればそれでいいのだ」という、一種のあきらめ的な思考に陥りがちですが、それではずるずると後退していくばかりです。

 一方において、「こんな時こそ強いリーダーが必要だ!」という一種の英雄待望論もありますが、これはこれで相当に問題です。「強いリーダーが新しい政策を果敢に実行する。そしてそれは国民全員が満足する素晴らしい結果をもたらす」といった幻想は、もう捨てるべきです。

 私はここで、もう一度「国民主権」の持つ意味を皆さんに問いかけたいのです。近代的な意味における国民主権の概念は、17世紀から18世紀にかけて成立しました。それまでは主権は王様が持っており、税金の集め方も使い方も、戦争を始めるのもやめるのもみんな王様が決めていました。国民はただ、「税金をまけてくれ」などと王様に懇願する立場でしかありませんでした。

 国民主権はこれを否定します。重要なことはすべて主権者である国民が、代表者を通じて決める、そのために行政の長や議員などを自分たちで選ぶ、という間接民主主義制度が確立していきました。

 国民主権は国民一人一人が「もし自分が為政者であったらどうするか」を真剣に考えた上で、主権の行使としての投票行動を行わなくては何の意味もありません。

「税金は安いほうがいい」、「医療費はできるだけ安くせよ」、「年金はいっぱいもらいたい」、「高速道路はタダがいい」、「自衛隊の海外派遣は反対だ」……それらがすべてできればこんなにいいことはないのですが、そうなったら間違いなく財政は破綻し、国際的に孤立することは明らかです。「民主主義は自己破壊的性向を内在している」と言われるのは、そういうことです。

 自己の満足のために投票行動をとるのは、王様に対して「あれもしてほしい、これもしてほしい」とお願いだけをする、君主主権時代の国民と何も変わりません。田中美知太郎先生ふうに言えば「そのような者は臣民であって決して主権者ではない」ということになります。

 強いリーダーを求める気持ちはわかります。しかし、それは国民が作るものであり、どこかから降ってくるものではありません。また、熱に浮かされたような支持であれば、長続きはしません。

 小渕恵三総理が誕生した時、支持率は極めて低いものでした。「冷めたピザ」と海外からも酷評されました。しかし、じわじわと支持率は上がっていきました。それは政策の是非ということ以前に、小渕さんが常に自分の言葉で正直に国民に語りかけていたからだと私は考えています。

小泉元総理の本気

 小泉元総理の人気について、口にするワンフレーズの巧みさ、パフォーマンスの上手さを要因とする人がいます。それも一面の真理でしょうが、私は、小泉さんの人気の肝の部分は、「痛みに耐えよう」ということを正直に国民に語ったところにあると思っています。それまで、そんな言い方をした人はいませんでした。

 小泉さんは、「痛みに耐えれば、その後にいいことがある」と本気で信じて、それを口にしたのです。その本気がわかったから、国民は支持をして、結果として強いリーダーになりました。誰の懐(ふところ)も痛まない、それでいて誰もが得をするような政策は存在しません。そのような幻想を振りまく政治とは、もう訣別(けつべつ)すべきです。

 かつての日本は、伸び盛りの青年でした。成長期の子供というのは、少々偏食だろうが、無茶をしようが、すくすくと背が伸びていく。ちょっと病気になっても、一晩寝たり、売薬を飲んだりすればかんたんに治る。そういうものです。でも、いまの日本はそうではありません。中年になると、いつまでも若いつもりで無茶な運動をしたり、徹夜で酒を飲んだりすれば、すぐに体調を崩します。生活習慣病を抱えていれば、継続的に治療を受けなければならないし、食生活にも気をつけなくてはなりません。手術が必要な場合もあります。

 特効薬のような政策を口にする行為は、生活習慣病の患者に対して、「好きなものだけ食べていればいいんですよ。ストレスが一番体に悪いですからね。甘いものが好きなら、どんどん甘いものを食べてください」と言うのと同じです。そんなアドバイスに乗ったら、寿命を縮めるだけです。

 そして、そのことを多くの日本人はすでに知っています。だから、甘言を弄(ろう)する政治家の賞味期限は短くなっていくでしょう。きっとこの先も、「甘さ」を売りにする者は出てくることと思います。「私(たち)に任せれば、万事あっという間に解決します」と。

 しかし、「そんなウソにはもうだまされないぞ」ときっぱりはねつける叡智が、日本人にはあります。少なくとも私はそう信じています。

国民を信じよ

 突き詰めた議論をすることなく問題を先送りしてきた政治。全体の利益よりも個の利益を優先させ、最後は空気に任せて「やむを得ない」との選択をしてきた政治。その結果が、今日の状況を招いてしまいました。財政しかり、憲法問題が底流にある安全保障しかり、社会保障や農業、原発もまたしかりです。

「政治家の仕事は勇気と真心をもって真実を語ることだ」──政治の世界に身を投じて間もない頃に、渡辺美智雄先生に教えられたことです。

 自分は真実を極める真摯(しんし)さを、それを語る勇気を、そして国民にご理解いただける真心を持っているか。自らの至らなさを日々実感しながらも、常に自分に問いかけています。

 30年近く前、私が議員になったばかりのころ、リクルート事件などの不祥事が相次ぎ、政治不信の解消が叫ばれました。政治倫理の確立、腐敗防止、資金の透明性確保、選挙制度改革……いくつもの「政治改革」が断行されたはずなのに、政治不信は解消されるどころか、一層の高まりを見せ、今や民主主義は崩壊寸前の危機に瀕(ひん)しています。

 国民が政治家を信じていない。それは確かにその通りです。

 では、政治家は国民を信じているのか。

「どうせ国民に難しいことはわからないのだ」、「こんなことを言ったら票が減る」といって真実を語る真摯さも勇気も持たない。誰も聞いていなくても街頭に立ち、必死に訴え、一人一人を説得するという国民に向き合う真心を持たない。それで国民を信じていると言えるのか。実は国民を信用していない政治家が、どうして国民に信頼されるのか。私は最近つくづくそう思うのです。

 突き詰めて真剣に考えれば、日本に残された時間は実に短く、政策選択の幅は恐ろしく狭いのです。国民を信じて、勇気と真心をもって真実を語る政治を何としても実現するために、全身全霊を尽くしていきたいと願っています。

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。