「27年不倫で貧乏時代を支えた妻を裏切り…」 「朝ナマ」に君臨する田原総一朗の研究

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傷は癒えない

 波風は立てまい――。そんな思いはあっても、簡単なことではない。節子さんの家庭にもやはり波風は立っていた。

「彼らがそういう関係になったのを知ったのは、娘が4歳の時です。知った経緯は話したくありません。ウチは普通の家庭だった。あれ以来、家庭内別居になってしまいました」

 とは節子さんの前夫。

「それでも離婚をしなかったのは、子供が小さかったからです。子供が20歳になるまで、別れないという約束をしました。本(『私たちの愛』)はざっと読みました。事実関係で違うところもあるし、内容に関して言いたいこともある。ただ、それを言うととりとめもなくなってしまうので、こちらからは何も言うことはありません」

 いまだに、傷は癒えていない。不倫をオープンに書いたことについて田原氏は、

「女房とこういう本を作るのも最後だから、できるうちに本当のことを全て書こうと思った。娘たちにウソは書きたくなかったし、ジャーナリストだから洗いざらい全てを明らかにすべきだという気持もあった。(不倫は)良いはずはないが、人間の業というか、そういうことになってしまった」

 昭和51年(1976年)に東京12チャンネルを退任した田原氏は、長い間、雑誌の世界でライターとして活躍するが、11年後の昭和62年(1987年)、テレビの世界に復活する。「朝まで生テレビ」のレギュラー司会者として本格的に登場してきたのだ。
 
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 この先のテレビキャスターとしての田原氏の「サクセスストーリー」は割愛しよう。「朝まで生テレビ」は企画の斬新さ、激論が生む刺激の強さなどから人気番組となり、田原氏のテレビ界、言論界での存在感は増していく。結果、節子夫人の葬儀には時の首相や元首相、野党党首らから経済界の重鎮まで錚々(そうそう)たるメンバーが参列したのは前編でお伝えした通りだ。この「大物ぶり」が彼ならではの司会スタイルを強化していった背景にあるのは言うまでもない。出演者の発言を遮るのは日常茶飯事、時に怒鳴り、時に全否定する。

 こうしたパワハラめいた振る舞いにせよ、不倫にせよ、「昭和なら許されたけど今は……」と語られる類の言動なのは間違いない。コンプライアンスにとりわけ敏感なテレビ局で、これが許されるのも実績の賜物(たまもの)ということだろう。彼が日頃厳しく追及している政治家ならば一発アウトになっても不思議はない。

 また、田原氏が番組内で頻繁に発する問いに「日本はなぜこんなにダメになったのか」というものがある。皮肉なことに、彼の司会ぶりにはその答えの一端が垣間見える。冷静な議論、相手を尊重する議論、事実と論理をベースとした理論よりも、パワハラ的言動、感情的な物言いが横行する議論をけん引しているのが田原氏である。

 果たしてBSに移行した後も、この芸風は継続されるのだろうか。

 前編〈「田原総一朗」妻の葬儀には総理大臣らが続々と 「朝ナマで相手を追い込んでゆくやり方」は昔からとの証言も〉では、その傲慢な司会進行のルーツに迫る貴重な証言を紹介している。

デイリー新潮編集部

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