「27年不倫で貧乏時代を支えた妻を裏切り…」 「朝ナマ」に君臨する田原総一朗の研究

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 9月28日に地上波での最終回を迎えた「朝まで生テレビ」(今後はBS朝日で継続)。1987年放送開始のこの番組に君臨し続けているのがジャーナリストの田原総一朗氏(90)である。

 前編〈「田原総一朗」妻の葬儀には総理大臣らが続々と 「朝ナマで相手を追い込んでゆくやり方」は昔からとの証言も」〉では、無名時代の彼の仕事ぶりに独特の司会スタイルのルーツを見た。後編では、本人が著書『私たちの愛』でも明かした「27年間のダブル不倫」の実態を見てみよう。田原氏が最初の結婚をしたのは昭和35年(1960年)。相手はいとこの末子さんだった。田原氏は大学卒業後、岩波映画社に入社。呉服店に勤めていた末子さんは結婚後も仕事を続け、苦しい家計を支え続ける。時には田原氏の監督した映画の資金まで調達に動いたこともあるという。その献身ぶりは周囲も認めるところだった。しかし、田原氏は――。

(「週刊新潮」2004年10月21日号記事をもとに再構成しました)

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 末子さんは田原氏にとってまさに糟糠(そうこう)の妻。が、その一方には、節子さんという存在があった。岩波映画社時代に日本テレビ・アナウンサーの節子さんに出会い、長い間不倫関係を続けていた。田原氏と節子氏が二人の出会いから闘病生活まで包み隠さずにつづった共著『私たちの愛』にはこうある。

〈二つの家庭には二人の存在はいっさいなんの波紋も及ぼさないこと。従って、二つの家庭は、二人がそれぞれの責任において、全身全霊をかけて守り、おたがいにそれを侵さないこと〉

 要するに、家庭は壊さない、という誓いである。

「苦しんで、苦しんでいましたよ」

 末子さんは、昭和59年(1984年)9月に乳ガンで亡くなった。節子さんと夫の協議離婚が成立したのは、昭和63年(1988年)。田原氏との再婚は、翌平成元年(1989年)のことだが、

「末子さんが、節子さんと総ちゃんとの関係を知ったのは、上の娘が3歳の頃からです。末子さんはそれはもう苦しんで、苦しんでいましたよ」

 とは親戚の人だ。二人は家族に迷惑をかけないと言ったが、周囲が気が付かないはずもない。

「総ちゃんのポケットからホテルの領収書が出てきておかしいね、なんてことが何度もあった。節子さんがどっかに旅行に行った時、お土産としてウチに夫婦茶碗をくれたことがありました。その時、末子さんのお母さんは、茶碗をメチャクチャにたたき割った。かわいい娘を苦しめる節子さんが許せなかったのよ。末子さんは惨め過ぎました。本当に悩んで、信仰にすがって救われていたのです。その上乳ガンになってますますかわいそうだった」

 末子さんは親しい隣人にも苦しい胸の内を打ち明けていた。

「田原さんがものを書くため、ホテルに缶詰になっている時末子さんが部屋に訪ねて行ったら、そこに節子さんがいた、という話を聞かされました。ある時、田原さんが倒れたと聞いて、末子さんが下着や湯飲みを持って病院に駆け付けると、節子さんが先に来てお世話をしていたという話も聞いています。末子さんは頭の毛が抜けるほど苦しみ抜き、円形脱毛症になったほどです」

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