「田原総一朗」妻の葬儀には総理大臣らが続々と 「朝ナマで相手を追い込んでゆくやり方」は昔からとの証言も
いとことの結婚
日本交通公社を辞め、早大第一文学部国文科に再入学したのは、昭和30年(1955年)。在学中はアルバイト三昧で、中学生相手の学習塾を開き、稼いだという。
昭和35年(1960年)、大学卒業。岩波映画社に入社する。当時、この会社に在籍していたのは、羽仁進、黒木和雄、土本典昭、東陽一、小川紳介など、後に映画やドキュメンタリーで活躍する多士済々なメンバーだった。同期には後に演劇界で活躍する清水邦夫がいる。
「多様で風変わりな人間が集まっていて、神保町の梁山泊と言われていましたね」(映画「祭りの準備」などで知られる黒木和雄監督)
この映像制作に携わることが、後の田原氏を決定づけることになる。
この年の暮れ、田原氏は結婚した。相手は3歳年上でいとこの末子さん。幼なじみで、戦時中は末子さんが彦根の田原家に疎開し、一方田原氏が大学時代に下宿していたのが、末子さんの台東区上野の家だった。
「総ちゃんは煎餅布団一枚持って、彦根から末子さんの家に転がり込んだのよ。彦根弁丸出しで田舎者の総ちゃんをなにくれとなく世話していたのが、末子さんで、そのうち恋愛関係になったのよ」
とは親戚の一人。
「二人は“結婚したい”と言い出したけど、総ちゃんの親が“イトコ夫婦はよくない”って反対したの。でも、両家が信仰している宗教の上の人に相談したところ“本人同士が好きならばいい”と言ってくれたのよ。末子さんには、総ちゃんとは別の人との結婚話も進んでいたんだけどね」
二人が挙式したのは彦根の稲荷神社だったという。
「二人は経済的には苦しかった。100円で三つの缶詰を買ってきて、御飯を食べたとか言っていました。けれど、彼女はとても楽しかったと言ってる。末子さんは、娘時代も結婚後も、日本橋の呉服屋に勤めて、家計を支えていた。倹約家で埼玉の蕨市に家を変えたのも、東京北区十条の家を買えたのも彼女のおかげよ。総ちゃんが映画を作って借金をこしらえた時も“パパが映画を作るので大変なの”と言って、陰で支えていた」(同)
岩波映画社では、子供向きの科学映画など手がけていた田原氏が、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に移ったのは、昭和38年(1963年)だった。翌39年(1964年)の開局に合わせて、アチコチから映画やテレビの経験者が集められたのである。
「田原は“オレがオレが”という男ではないけど、真っ先に頭角を現した。いい作品を撮っていたね。ドキュメンタリーの中でディレクター自らが出演してインタビューするやり方を、自分で形として作り上げた。今の田原のスタイルはそこで芽生えたんじゃないか」
とは、東京12チャンネルで同期の倉益琢真氏だ。
「70年安保の時、彼は藤圭子のドキュメンタリーを撮った。彼女の『夢は夜ひらく』は若者の応援歌で、藤圭子自身も当時の全共闘のアイドルだった。田原一人でインタビューしてまとめたものだったが、視聴率が普段の倍に跳ね上がって、みんなびっくりした」
相手を追い込んでゆくやり方
東京12チャンネルで週1回放映されていた「ドキュメンタリー青春」の中に田原氏の代表作が多い。
「打ち合わせもほとんどなく、フィルムが回っている3分間は好きなことを喋っていいと言われ、“芸術家を殺しに青森からやってきた”とか言いたいことを言っていました」
というのは、「ドキュメンタリー青春」に出演したフォーク歌手の三上寛氏。
「僕は世に出たいと思っていたから歌えと言われれば歌ったり、積極的にパフォーマンスをした。でも、田原さんのやり方は、人を追い込んでゆく。気持ちの良い方向ではなく、言いにくい方へもってゆく。最終的に撮っている最終に逃げ出した。25分番組であと5分で完成というところで、逃げました。後で放送を見たら、残り5分のところで田原さんが画面に出てきて、僕に向かって“どこに行ったんだ”と呼びかけている。シュンとなりましたね。後に『朝まで生テレビ』にパネラーとして出ましたが、相手を追い込んでゆくやり方は、当時と変わりません」
田原氏自身、
「ドキュメンタリーは、怒ったり、泣いた時が良かったりするものですよ。そうなれば成功です」
と語っている。「サンデープロジェクト」や「朝まで生テレビ」で出演者を挑発したり、怒鳴ったりするのもまさに演出なのだ。
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