「田原総一朗」妻の葬儀には総理大臣らが続々と 「朝ナマで相手を追い込んでゆくやり方」は昔からとの証言も

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作家志望だった少年時代

〈最も政界に影響のあるキャスター〉

 と、称される田原氏は、昭和9年(1934年)4月15日、琵琶湖畔にある井伊家の居城で知られる滋賀県彦根市で、4人きょうだいの長男として生まれた。生家は、芹川沿いの“七曲り”地区にある。伝統工芸品の彦根仏壇の発祥の地で、今も大勢の仏壇職人が住む。

「田原家は総一朗さんの祖父の代は生糸工場をやっていて、横浜に支店を持つほどの羽振りでした。女中さんもいっぱいいて、娘を嫁に出す時、女中付きで出したものです」

 とは親戚の人。

「ところが、関東大震災で横浜支店は崩壊、おまけにおじいさんも脳溢血で倒れてしまい、生糸工場も廃業に追い込まれたのです」

 田原氏が生まれた当時、生家は没落していたものの、麻工場を営み、細々と落下傘用のひもを製造していた。だが、戦争終結とともにその需要もなくなった。

「家計は苦しく、両親は総一朗さんを、地元の滋賀大か京都大に入学させ、アルバイトで生計を助けてもらいたいと思っていた。しかし、本人が早稲田に入りたいと言い出したのです」(同)

 作家志望だった。

「彼は小学6年生で『憧れの甲子園』という小説を書いていました。高校時代にも、高校新聞で連載小説を書くほどの文学好きです」(友人)

 当時、田原氏が通っていた彦根東高校の英語教師に、後に社会党代議士になる上田哲氏がいた。

「田原くんはよく私の下宿に遊びに来ていましたよ。後に『朝まで生テレビ』にゲストとして呼ばれた時、必要以上にしつこく攻められました。昔の関係にこだわらない、という気持だったのでしょうがね」

 両親に月々仕送りすることを条件に東京行きを許してもらったのは、昭和28年(1953年)3月。早稲田大学第二文学部に入学し、昼間は日本交通公社で働いた。初任給は5500円。毎月1000円を実家に仕送ったという。

「7年前、お母さんが亡くなるまでずっと仕送りをしていましたね。亡くなる頃は月20万円送っていたと聞きます」(近所の人)

 田原氏を東京へ駆り立てたのは、作家への夢だったが、すぐに断念する。

「同人誌に書いても“文才がない”と言われる。石原慎太郎の『太陽の季節』を読んでこれはダメだと思った。さらに、大江健三郎の芥川賞受賞作品を読んで、完全に挫折したんです」(田原氏本人)

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