「田原総一朗」妻の葬儀には総理大臣らが続々と 「朝ナマで相手を追い込んでゆくやり方」は昔からとの証言も

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ついに地上波では最終回

 9月28日、「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)が地上波での最終回を迎えた。今後もBS朝日で継続するものの、毎月最終日曜日夜7時からの2時間番組となるので、実質的には別番組になると考えていい。1987年の放送開始以来、番組を取り仕切っていたのはジャーナリストの田原総一朗氏(90)。時折別の人物が司会を務めることもあったが、基本的には田原氏の番組だったと言って構わないだろう。

 同番組、田原氏についての評価にはかなり幅がある。民放ではほとんど扱わない硬派のテーマを数多く取り上げてきたこと、さまざまなオピニオンリーダーを輩出したことなどは「功」とされる。

 一方で、結局長時間話し合っても大した結論が出ないこと、時に単なるののしり合いになり不毛な議論を見せるだけに終わることなどは批判の対象となってきた。

 近年、田原氏の司会ぶりに関しては否定的な意見のほうが多かったかもしれない。出演者の発言を遮る、叱り飛ばす、理解しない等々、あまりに独善的なスタンスは昭和ならいざ知らず、現代では理解されにくいものだった。仮に現在、企業の会議でこのような振る舞いをする人物がいれば、パワハラ認定されるのは間違いない。

 番組の歴史や田原氏のキャリアを知らない若い視聴者ならば、衝撃を受けることだろう。なぜこのような傲慢な司会進行が許されるのか、この老人は一体何者で、いかなる権限を持っているのか、と。

 以下のレポートを読めば、その答えは見えてくるだろう。2004年、週刊新潮が掲載した田原氏に関するノンフィクションだ。今から20年前、田原氏が70歳の時のものだが、すでにこの時点で田原氏の評価は現在とさほど変わらないものだった。記事のタイトルには「『27年の不倫』を美談にした『見世物男』」とかなりキツい表現が見られる。

 不倫を美談? 見世物男? 一体どういうことか。

 本人や関係者らへの取材をもとにしたレポートをご紹介しよう(以下、「週刊新潮」2004年10月21日号記事をもとに再構成しました)

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政財界の大物が次々と葬儀に

 平成16年(2004年)8月20日夜。東京・築地本願寺に次々と黒塗りの大型車が到着する。

 車から降り立ったのは、小泉純一郎首相、岡田克也民主党代表、神崎武法公明党代表、市田忠義共産党書記局長など各党代表者。さらには、平岩外四元経団連会長、西川善文三井住友銀行頭取、御手洗富士夫キヤノン社長などの財界人。異色なところでは、朝鮮総連の最高実力者、許宗萬責任副議長なども顔を見せた。

 彼らは、その1週間前の8月13日、67歳で亡くなった田原節子さんの弔問にやって来たのだった。ジャーナリストでキャスターの田原総一朗夫人である。

 通夜の参列者数およそ1000人。翌21日に執り行われた告別式にも大勢が参列した。いかに著名といえども、一人のキャスターの夫人の死に際して、

「これだけ錚々(そうそう)たるメンバーが集まったのは、後にも先にも聞いたことはない」(政治部記者)

 一方、節子さんの死は一般の人々の関心も集めた。平成15年(2003年)1月に出版された田原夫妻の共著『私たちの愛』は、二人の出会い、27年間のダブル不倫、再婚、乳ガン発症、そしてガンとの闘いを包み隠さず書き記したベストセラーだったからだ。彼女の死は、闘いの終わりを意味していた。愛の物語の美しい結末。人々はそう思った。しかし、ほんとうにそうなのだろうか――。

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