「オバタリアン」が死語となり、「おじさん」批判も大炎上…間違っても他人を“揶揄”できない「政治的に正しい時代」はどこへ向かうのか
オバタリアン
彼にとって自身の身長は、長年のコンプレックスだったのだという。というのも彼には、身長が高い=強い、ということを意味するのだという固定観念があるのだ。
「何かトラブルに巻き込まれた時、身長がデカい方がナメられない。オレは弱そうに見えて『こいつなら勝てる』と標的にされるんじゃないか、という心配をずっとしてきた。そして、その心配と自信のなさが生き方全般の自信のなさに繋がっていると思う」
そう、人々は個々に様々な不安と恐れをもって生きているのだ。薄毛だってそうだし、肥満もそうだ。「おじさんだから揶揄していい」ということではない。1980年代の小学生は肥満の女子児童に「百貫デブ」などとヒドいことを言っていた。ちょっと待てよ、百貫って375kgだろ! せいぜい50kgというところだった。
女性に対する揶揄は表面上減っていったが、いずれおじさんも揶揄をしてはいけない対象になるだろう。そんな時代が来た時はもはや権力者と権威のみが揶揄していい存在になるかもしれない。
揶揄の対象外になる歴史として印象的なのは、1988年から1998年まで連載された漫画『オバタリアン』だ。「オバサン」と「バタリアン」を組み合わせた言葉。バタリアンとは、アメリカのゾンビ映画のタイトルで、日本のオバサンが傍若無人に暴れまくる姿を描いた作品だ。主人公は太っていて大仏のような髪型で怒っているか図々しい存在として描かれる。夫はひたすらそれに耐えるのである。
思い出尊重おじちゃん
この「オバタリアン」、1989年の流行語大賞では金賞を獲得。しかし、女性をこのように扱うのはいかがなものか、といった風潮も90年代後半には出てきたのだろう、おばさんは揶揄をしてはいけない存在になり、次第に死語になっていった。現在では、せいぜい、親戚を意味する「伯母さん」「叔母さん」が許される程度である。「おば」という言葉を使うのであれば愛情を込めて「おばちゃん」になっていった。
もし、「おじさん」がこれと同じ流れを辿るのであれば、もしかしたら将来的には「子供部屋おじさん」が「思い出尊重おじちゃん」に、「働かないおじさん」は「マイペースおじちゃん」のように言い換えが発生するかもしれない。いずれにしてもここ数年間、牙城が崩れつつあることを感じている。おじさんだからといって、決して強者ではないのだから。