ドラマ「極悪女王」が絶好調スタート 絶賛の嵐を呼んだ「全女ブーム」のリアルすぎる描写

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レスラーたちのカネ

 劇中では、ダンプの生い立ちから80年の全女入門、そして88年2月の引退試合までが描かれているが、彼女がクラッシュと抗争を繰り広げていた84年から、ダンプの引退あたりまでが全女の絶頂期だった。当時「東京スポーツ」記者として取材していた、プロレス解説者の柴田惣一氏は、スポーツ情報サイト「webスポルティーバ」の連載記事(9月19日)で、全女の盛況ぶりをこう明かしている。

《当時、事務所は東京の目黒にあったんですが、その事務所の奥に大きな金庫があり、そのなかに現金が無造作に押し込んでありました》
《あの頃は今と違って、現金での取引がほとんど。試合後、チケットやグッズの売り上げを、そっくりそのまま金庫に入れておく。だから、金庫を開けるとこぼれるようにお金が落ちてくるんですよ》
《よく松永4兄弟は、「飲みに行こう!」と金庫を開けて、クシャクシャのお札を鷲掴みにしてポケットに入れて繁華街に向かっていました》

 もともと、全女は68年に創業されたが一気にバブルが到来して好況になったわけではない。高司氏は会場内に設けられた売店で焼きそばを焼いてコツコツ稼ぎ、マッハ文朱やジャッキー佐藤とマキ上田の「ビューティペア」といったアイドルレスラーを送り出した。そしてクラッシュとダンプの抗争が大当たりして、全盛期を迎えたのだ。

 さらに、もとはプロモーターとして関わっていた阿部氏だが、同期の中でただ1人デビューできず、運転免許を持っていたので宣伝カーの運転ができるということで営業部に回されて腐っていたダンプの良き相談相手となり、プロレスの“内幕”を教えるなど良好な関係を築く。そこで、極悪同盟の専属レフェリーとなり、一躍名悪役の1人となった。劇中、ダンプとのやりとりで阿部氏のセリフが印象的だ。

「全女で成功する条件は1つだけ(そう言い切り、親指と人さし指で丸をつくるとダンプは仰天)。客からいかに金を引っぱりだすか。それが問題よ」

「全盛期は興行収入に加え、フジテレビからの放映権料、会場でのグッズ販売や飲食など、売上はすべて現金での手渡しなので、地方でも1000万円ほど稼いでいたといいます。それを段ボールに詰め込んで、足で踏んづけて詰め込み、事務所に持ち帰って金庫に入れて蓄えていたそうです。まさにどんぶり勘定。いくらあるか誰も把握していないのも納得です」(同)

 そこで気になるのが、ダンプや長与の当時の収入だ。

 2人は19年4月3日放送の日本テレビ系「有吉大反省会2時間SP嘘つき26人集結VS大吉バカリ指原」に出演したが、新人時代は月給5万円ほどだったのだとか。全盛時について、ダンプは「千種はもらっていた。自分たちは1試合3万5000円しかもらっていない」として、ダンプが長与に「(ファイトマネーは)5万円?」と尋ねても、長与は首を横に振り否定した。

 年間最高で310試合をこなしていたそうで、ビッグマッチでは会長(=高司氏)の口から「今日2億もうかったぞ」などと景気のいい話が飛び出すこともあったという。

 そして引退時の功労金について、ダンプは、500万円だったことを告白。「1000万くらいもらったんだよね?」とダンプが水を向けると、長与は「おうちが建つかな」。ダンプは「(ライオネス)飛鳥だってもらってないんだよ!」と声を上げると、長与は「言っちゃダメ! ここカット! カット!」と慌てていた。

「新人時代は寮に住み、白米だけは食べ放題でおかずは自腹。だから、缶詰が最高のごちそうでした。売れたところで、ダンプもクラッシュもプロレスの収入はそれほどでもなく、芸能活動で稼ぎましたが、それも、いくらかは会社に持って行かれる。それでもダンプはせっせと母親に仕送りをして、面倒見がいいのでブルら後輩を引き連れて飲みに行くので、お金は残らない。飛鳥はコツコツ金を貯めて母親のために3000万円のマンションを買い、長与は長崎で暮らす両親に毎月100万円の仕送りをしていたものの、両親が相次いで病気になってしまったので芸能活動を止められなくなりました。そのうち、プロレスに専念したい飛鳥とぶつかるようになり、長与が1人で芸能活動を行い、徐々にクラッシュの人気も落ちて行ったのです」(前出・ベテラン記者)

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