名将から愚将に転落! 「日本一」「リーグ優勝」監督が陥った“再任の罠”
8年ぶりに復帰した“ミスター赤ヘル”
1期目の1991年にリーグVを達成した広島・山本浩二監督も、2001年からの2期目は、5年連続Bクラスと結果を出せなかった。
2年連続Bクラスに終わった達川光男前監督のあとを受けて8年ぶりに復帰した“ミスター赤ヘル”は、投手力の底上げと若手の育成を課題に、「足を使い、しっかり守って、1点でも多く取る広島らしい野球をする」とカープ黄金時代の復活を目指した。
1年目は金本知憲、ディアス、ロペスらの打線がリーグ2位の155本塁打を記録し、投手陣では黒田博樹が成長。だが、スローガンにも掲げた守りがリーグ最下位の守備率と安定感を欠く。また、抑え投手も確立できず、勝てば4年ぶりAクラスとなるシーズン最終戦のヤクルト戦に8対10で敗れ、横浜に1勝差の4位に終わった(同年のセ・リーグは勝数順位決定方式)。
翌2002年も投手陣がリーグ最低の防御率を記録するなど、投打がかみ合わず5位。4番・金本がFAで流出した2003年も、先発投手陣が崩壊し、“ポスト金本”の新井貴浩の不振などから再び5位と苦しいシーズンに。2004年も“赤ゴジラ”嶋重宣が首位打者、ラロッカが40本塁打と打線は活発ながら、“弱投”がネックとなり、3年連続5位と低迷が続く。
「監督業は苦しいのよ」
そして、翌2005年も、新井が主砲覚醒したものの、投打がかみ合わず、9月13日の時点で首位・阪神に24.5ゲーム差の最下位。この日、山本監督も球団側に辞任を申し出たことが明らかになった。
主力の流出や故障もあったが、就任時から投手を中心とした守りの野球を目指しながら、目先の勝利のための打ち勝つ野球が多くなり、投手力の底上げや戦力の拡充等、チーム再建のための明確なビジョンが見えてこなかったことも、低迷の大きな要因となった。
監督が替わっても、広島は2012年まで15年連続Bクラスという長い冬が続いた。後年、山本氏は自らの体験を踏まえて「監督業は苦しいのよ」と語っている。
このほか、1974年にロッテを日本一に導いた金田正一監督も、1990年の再任後は、5位、6位と振るわず、契約を1年残しながら、翌年の千葉移転を「潮時と感じた」と、シーズン終了報告の席で辞任を発表している。
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