名将から愚将に転落! 「日本一」「リーグ優勝」監督が陥った“再任の罠”

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 渡辺久信監督代行兼GMが指揮する西武が、9月12日に西鉄時代に記録した球団ワーストを更新する85敗目を喫するなど、負の連鎖が止まらない。2008年の監督就任1年目に西武を日本一に導いた同代行だが、かつての輝かしき経歴にミソをつける結果になった。過去にも、かつてチームを優勝や日本一に導きながら、再任後にまったく結果を出せなかった監督がいた。【久保田龍雄/ライター】

「阪神・清原」を渇望した吉田義男監督

 監督2期目(1期目は1975年から77年まで)の1985年に阪神を21年ぶりリーグV、初の日本一に導くも、97年からの3期目では、暗黒期のチームを建て直すことができなかった。

 96年9月の藤田平監督解任直後、阪神の次期監督決定までには1ヵ月近くを要し、OBの田淵幸一氏、掛布雅之氏、巨人OBの藤田元司氏らの名前も浮上したが、最終的に「勝てる監督」という球団サイドの評価から、吉田監督の3度目の登板が決まる。

「まさか私に監督就任要請が来るとは思わなかった。しかし、今の私は65歳で長くできるとは思っていない。長くて2年でしょう」と次代への橋渡し役を引き受けた吉田監督は、4番不在の穴を埋めるべく、FA宣言した西武・清原和博獲得に全力を挙げた。

 巨人移籍が濃厚の清原に対し、「(ユニホームの)縦縞を横縞に変えてでも君が欲しい」と口説きに口説いたが、結局、“阪神・清原”は絵に描いた餅で終わる。

 さらに当時の球団史上最高額の年俸300万ドル(約3億3000万円)で獲得した現役メジャーリーガー・グリーンウェルも、翌97年は7試合に出場しただけで電撃引退帰国と期待を裏切るなど、低迷からの脱却構想は思うように進まない。

 それでも同年は3年ぶりに最下位を脱出し、5位でシーズンを終えたが、翌98年は投打とも精彩を欠き、最下位に逆戻り。長いトンネルの出口が見えないまま、退任となった。

 だが、吉田監督時代にドラフト指名した今岡誠、関本健太郎、浜中治、井川慶、中日からトレードで獲得した矢野輝弘が2003年の優勝に貢献したことを考えると、橋渡しという目的は達せられたと言えるだろう。

「茶髪&ひげ禁止」の“鬼監督”復帰宣言

 2002年の就任1年目に4年ぶりVを達成した西武・伊原春樹監督も、2014年の2期目は苦闘した。

 渡辺久信監督の後任として11年ぶりに復帰。「ライオンズは常に優勝が宿命づけられている。監督が替わり、鬼が帰ってきたと思ってもらえば」と自ら“鬼監督”を宣言し、選手たちにも「優勝を目指すのではなく、“優勝します”だ」と檄を飛ばした。

 茶髪、ひげの禁止などをルール化し、試合でも偽装スクイズや複雑なサインプレーを多用し、“伊原イズム”をチームに浸透させようと図ったが、渡辺前監督の“のびのび野球”に慣れた選手たちは戸惑い、萎縮し、チームの勢いまで失ってしまう。

 開幕から3連敗した西武は、8カード連続負け越しで最下位に沈み、借金も6月3日にDeNAに敗れ、「14」になった。

 翌4日のDeNA戦は1対0で勝利したが、試合後、伊原監督は緊急記者会見を開き、「一度、ここは監督が引いて、引くがために(チームに)いい風が吹くのではないかと思いました」と開幕から53試合目でのスピード休養となった。

 その後、田辺徳雄代行が指揮をとったチームは、シーズン途中に入団し、伊原監督も「歴代の外国人でも最上位。デストラーデみたい」と期待したメヒアの活躍などで7月を12勝10敗と勝ち越し、一時4位に上昇も、序盤の借金が最後まで響き、63勝77敗4分の5位で終わった。

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