文庫版が異例のヒット『百年の孤独』は日本で映画化されていた…命と引き換えに完成させた「演劇界の鬼才」

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映画化へ立ちはだかった壁

「寺山さんは、映画化にあたり、舞台を南国の架空の村〈百年村〉に設定しました。そのため、沖縄で大々的なロケをおこなうことになりました。ところが、このころ、寺山さんは肝硬変が悪化しており、医師からドクター・ストップがかかっていた。すでに舞台公演の前にも北里大学病院に1か月入院しており、かなり体力も衰えていたのです」

 しかし、医師の指示にしたがう寺山ではなかった。1982年1月、寺山はスタッフやキャストと共に、沖縄へ向かう。その手には、はっきり「百年の孤独」と表紙に印刷された台本が握られていた。ロケ中に、羽田空港沖で日航機の墜落事故(逆噴射事故)があり、原田芳雄が乗っていたとの誤情報が飛び交う騒ぎもあったという。

「しかしこのとき、映画化について、原作者側の正式許諾が、まだ得られていなかったのです」

 舞台化の際は、原作者側エージェントに申請して、許諾が得られていた。だが、映画化については、まだだったのだ。

「舞台化でもそうでしたが、寺山さんには、ガルシア=マルケス作品を、そのまま映像化するといった意識はありません。あくまで“読後感”から発展した、オリジナル作品のつもりでした。だから、大丈夫だろうとの見通しのまま、撮影に入ってしまったのです」

 撮影は同年春までかかった。最後の方では、寺山はほとんど寝たきりとなり、「よーい、ハイ」と「カット」の合図を出すだけで精いっぱいだったようだ。それでもなんとか撮影を終えたが、秋になって事態が深刻化した。以下、当時の新聞報道から。

〈同年(1982年)九月、寺山氏側は資料(台本、未編集のビデオテープなど)をマルケス氏側の代理人に見せたところ、話がこじれてきた。/寺山氏の映画を小説『百年の孤独』の一部を利用したものである、とするマルケス氏側の見解と、小説『百年の孤独』の読後感から出発した別個の映像作品である、とする寺山氏側の見解――が平行線をたどり始めた。以後、双方の弁護士の手に委ねられた。〉(読売新聞1984年2月23日付夕刊「『さらば箱舟』秋やっと公開」より)

「もともと寺山さんは、引用・参照・模倣・パロディ・オマージュ・コラージュの区別が混沌としているひとなのです。十代のころ、先進的な短歌を発表して話題になりましたが、すでにそのころから盗作だの模倣だのといわれてきました。しかし、そこにある種の魅力と妖しさがあるのも事実で、それがわからないと、寺山芸術は理解できません。残念ながら南米の原作者側に、そのニュアンスが伝わることは、ありませんでした」(元演劇記者)

 撮影は終わり、映画は完成した。だが交渉はこじれ、公開のめどが立たないまま、時が過ぎた。1983年4月、寺山は弱った身体で、ガルシア=マルケスに長い手紙を書く。「『百年の孤独』は副題とし、小説と映画の関係もフィルム中で明示します」と。しかし、それらの提案もすべて却下されたという(読売新聞・前同より)。

 その手紙を書いた直後の4月22日、寺山は意識不明となり、東京・杉並の河北総合病院に入院。5月4日、肝硬変と腹膜炎による敗血症で逝去する。享年47の若さだった。

「結局、寺山さんは、命を削って完成させた、映画「百年の孤独」を観ることなく、旅立ってしまいました。臨終の枕もとでは、寺山さんの前夫人で映画のプロデューサーをつとめた九條今日子、そして映画で“男を変死させる少女チグサ”を演じた高橋ひとみが見おくったそうです」

 交渉は製作会社のATGによってその後もつづき、1984年初頭、ようやく和解となった。条件は「『百年の孤独』のタイトルと原作者名を使用しない、弁護士費用2万ドル(当時のレートで約460万円)を支払う」だった(読売新聞・前同より)。

 タイトルは「さらば箱舟」と改題され、1984年9月8日、いまはなき有楽町スバル座で公開された。

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